お城や芭蕉の生家等々 伊賀市上野のサイクリングツアー その1 [ 旅行 関西以西]
10月初めの事、東海道五十三次の関宿から坂下宿まで歩き、翌日は鈴鹿峠を越えて「土山宿」と思っていましたが、当日朝迄の天気予報では坂下宿や土山宿付近の昼間は雨との事。
やむおえず東海道歩きを断念、雨の場合にはと事前に準備していた伊賀市の上野地区を観光する事にしました。
朝8時3分に亀山駅から関西本線で伊賀上野駅まで行き、伊賀上野駅から伊賀線に乗り上野市駅に9時2分到着。 亀山からの距離の割に時間がかかった。 しかも電車の本数が少ないので乗り遅れると確実に予定変更を迫られる。
とは言え当初計画の通りに上野市駅に到着、駅前の地面は濡れていた物の雨は降っておらず、駅前の「石井サイクル」により電動アシストのレンタル自転車を予約しました。
石田サイクルさんのホームページ http://ishidacycle.com/index.php?FrontPage
最初は歩いて伊賀上野城や忍者館のある上野公園を見学。
上野市駅前から北側に歩き「だんじり会館」前の交差点から左の上野公園に入って行きます。
観光案内所の前を通って最初に「芭蕉翁記念館」に寄り、時間の関係で入り口を覗くだけ。 下写真右が芭蕉の歩いた軌跡で芭蕉は本当に多くの地を回ったんだ と感心です。
芭蕉翁記念館から「伊賀流忍者博物館」によって見ました。 ここも時間の都合から、職員の方と少しお話をして、外観のみの見学としました。
伊賀流忍者博物館の隣は「俳聖殿」です。
俳聖殿は、1942年に松尾芭蕉生誕300年を記念して建設された木造建築物で、殿内に伊賀焼の芭蕉座像が安置されており、国重要文化財に指定されているとの事。
俳聖殿の入り口です。
雨上がりで、苔の緑が綺麗でした。 俳聖殿です。
次は伊賀上野城です。
伊賀上野城は、三重県伊賀市にある平山城。白鳳城とも言われている。
平清盛が建て伊賀天正の乱で焼失した平楽寺跡に、天正9年 (1581)織田信雄の家臣滝川雄利が築いた城砦が始まりで、城主は脇坂安治,筒井定次と代わり城も修理され近世的城郭となった。
家康は豊臣との対立が激しくなり大阪城包囲網の前線として、慶長 13年 (1608)家康の命を受け藤堂高虎の持ち城となり、二の丸や五層の天守築城等改築を進めた。 天守は落成目前の慶長 17年台風によって倒壊。 その後豊臣氏は滅亡し上野城を堅固な城塞にする必要がなくなり、藩制時代の再建はなかった。
現在の城は、昭和10年(1935)に衆議院議員の川崎克が私財を投じて模擬天守(大天守・小天守)を建設した。 この建物は元の天守を正確に復元した天守ではなく、正式には「伊賀文化産業城」と言うとの事。 昭和の最後の木造の城でもあります。
お城の裏から見学していましたので、「伊賀上野城の 高石垣」からの見学となりました。
藤堂高虎が築いた高さ30mの石垣です。
高石垣を見た後、坂を上って南側に回ってお城を見学。
昭和10年、衆議院議員の川崎克が建設したお城
内部は木造で、ふんだんに木が使われていました。
天守最上階からの伊賀上野の街並み
お城を出て、お城の前の道路を西に200m程歩いた所に「旧崇廣堂」が有りました。
崇廣堂は、1821年藤堂藩十代藩主藤堂髙兌(たかさわ)が、伊賀と大和山城の領地に住む藩士の子弟を教育する為に津の藩校「有造館」の支校として建てた物です。
伊賀市の上野公園を出て上野市駅前に戻り、石田サイクルで「電動アシスト自転車」をレンタルし市内観光です。
まず最初に向かったのが「芭蕉の生家」です。
松尾芭蕉は正保元年(1644年)ここで誕生しました。 父は与左衛門,母は藤堂宮内の移封で伊予国宇和島から名張に随従してきたむすめと伝えられている。 与左衛門夫婦の子は三男四女で、次男が後の芭蕉翁、幼名を金作、長じて宗房と名乗った。
俳諧好きの芭蕉翁は藤堂新七郎家の文芸サロンにも名を連ねめきめき頭角を現し、「貝おほひ」を版行。 寛文12年(1672年)に江戸へと赴いた。
長くなりますので、伊賀国分寺跡,鍵屋辻(荒木又右衛門と 渡辺数馬の敵討ち),旧小田小学校本館は次回にレポートします。
尚、旧東海道「関宿から坂下宿」のレポートは下記
https://hisashi1946.blog.ss-blog.jp/2019-10-15
https://hisashi1946.blog.ss-blog.jp/2019-10-22
鈴鹿峠越えの「坂下宿から土山宿」のレポートは下記
https://hisashi1946.blog.ss-blog.jp/2019-11-02
https://hisashi1946.blog.ss-blog.jp/2019-11-18
===================================================================
何時もつたないブログをお読み頂きありがとうございます。
下記はブログランキングのアイコンです。 是非クリックし応援をお願いします。
名車・クラシックカーのランキングへ
「旅 ; 街道・古道」 のランキングへ
ジャガーEタイプで、八王子のクラシックカー パレードに参加して来ました。
11月17日、早朝家を出て圏央道から八王子に入り、早目の到着だった為国道20号線でパチリと!
(もっと大きな立派な銀杏の下で、画素数の多いポジションで写真を撮ればよかった。)
8時前に会場入り。 指定位置に駐車し、受付を済ませました。
この日は「八王子いちょう祭り」でもあり、10時過ぎには会場入り口前広場で地元の方が「笛や太鼓で祭囃子」を演奏し、クラシックカーショーを盛り上げていました。
年に一度このショーにしか会えない方々に挨拶をしながら、素敵な車を見て歩き、
そして、あっという間に12時近くになり開会式等を行い、国道20号線の銀杏並木をクラシックカー250台がパレードします。
毎年の事ながら20号線のパレードは渋滞でノロノロ運転になり、カメラやスマホをかまえる沿道の観客にとっては好都合。 で、私も沿道のお客さんにお願いし、私達の乗った私の車を私のカメラで撮影して頂きました。
パレードは20号線の「町田街道入口交差点」で終了し、八王子市役所駐車場に戻り事務局に完走の報告をし、お土産の「参加車の集合写真」を頂き自由解散。
おかげさまで、事故も故障もなく帰宅出来ました。
で、今回の参加車の中で最も気になったのが、
下2台のダットサン フェアレディ,1963年型と1964年型,1500cc SP310です。
フェアレディの2代目で、1961年にダットサンブルーバード「310」のフレームにXメンバーを追加して「ダットサン・フェアレディ1500」として販売開始。
このフェアレディはドライバーシートの後ろに横向きシートを備えて3人乗りです。
その後1965年に1600ccエンジンを搭載しSP311とし、更に1967年にOHC 2000ccエンジンを搭載したSR311を販売。 1970年にフェアレディZに世代交代した。
他に今回はアメリカ GMの初代コルベットが参加していましたので、他のアメ車を含め紹介します。(アメ車は全て逆光の日陰でしたので上手く撮れませんでした。)
初代コルベット 1955年型
初代コルベット 1959年型 マイナーチエンジで4灯のヘッドランプに。
2代目コルベットスティングレイ
フォードの1934年型ピックアップ
フォードファアレーン500 1963年型
シボレーエルカミーノ 1970年型
で、最後に非常に珍しい国産車、いすゞベレルの縦目です。
所で、
「Response」さんが当日の参加車の多くを写真に撮り、下記のページで掲載しています。
https://response.jp/article/2019/11/18/328882.html
===================================================================
何時もつたないブログをお読み頂きありがとうございます。
下記はブログランキングのアイコンです。 是非クリックし応援をお願いします。
名車・クラシックカーのランキングへ
「旅 ; 街道・古道」 のランキングへ
東海道五十三次 坂下宿から土山宿 その2 滋賀県歩き始め [ 東海道五十三次]
10月27日の日曜日、東海道53次の内亀山市の坂下宿から鈴鹿峠を越えて滋賀県甲賀市の土山宿迄を歩いて来ました。
その時の「鈴鹿峠越え」の様子は下記のブログを参照ください。
https://hisashi1946.blog.ss-blog.jp/2019-11-02
(クラシックカーショー等があり、レポートが遅れました。)
今回は、上記ブログの最後にレポートしました「万人講常夜燈」からレポートを始めます。
(万人講常夜燈は金毘羅参りの道中の安全を祈願して、江戸時代に中山,坂下,甲賀谷の人達が 建立した常夜燈です。)
万人講常夜燈を過ぎると国道1号線に合流し、暫く国道沿いを緩やかに下って行き、万人講常夜燈から400mで初めて民家に到達しました。
10月末、山中川の渓谷は紅葉も始まり甲賀の里にも秋が近づいていました。
万人講常夜燈から約2kmの十楽寺(下左)の前を通過。
十楽寺付近からは前方に「新名神高速道路」が見え始め、十楽寺から約350m歩くと小さな公園と休息所が有り、そこを斜め右の路地に入り約200m歩いた右には地蔵堂も有りました。
地蔵堂から500m強歩くと新名神高速道の下に「第2名神滋賀県起工の地」の記念碑があり、向かいには下写真の「鈴鹿馬子唄を表現した馬と人の石像」と「一里塚の説明板」も有りました。(この公園の一番手前に山中一里塚の石柱が有ったはずですが、私は見逃した。)
本来、新名神下の一里塚から国道を渡り細い路地を上って行くのですが、直ぐにコンクリート工場に突き当たりUターン風に国道に戻されるので、続けて国道を歩く事に。
新名神の下から700m程歩き「猪鼻」の交差点をUターン風に右に曲がり国道から離れます。
約180m進み左折して更に約200m進むと右側に「旅籠 中屋」さん。
ご近所の方によると写真のお宅が昔から続いている「中屋」さんだそうです。
「中屋」さんから180m位道なりに歩き急な坂を上ると、再度国道1号線に出ます。
国道に出た後、国道を450m進むと右側にちょっと汚れた「蟹が坂」の道案内板があり、案内板の通り右側の東海道(赤い道)を進みます。
(今回、歩き始めた時に出会った蟹さんはここ蟹が坂から私を迎えに来たのでしょうか?)
道案内版の所から東海道を約600m歩くと「蟹坂古戦場跡」の石碑等が有りました。
天文11年(1542年)9月、伊勢の国司北畠具教が甲賀に侵入しようと神戸丹後守と飯高三河守に命じ、鈴鹿を越え山中城を攻めさせた。 山中城主山中丹後守秀国は直ちに迎え打ち北畠軍を敗走させた。 更に北畠軍は伊予の軍勢を加え山中城を攻略しようとしたが、山中城の秀国は六角定頼に援軍を乞い、再度山中城の秀国勢が勝利を収めた。
蟹坂古戦場跡から道なりに真直ぐ300m進むと「海道橋」と言う田村川に架かる橋に出ました。 海道橋は安永4年(1775年)にかけられた「田村永代板橋」を復元した橋です。
往時の橋は幅二間一尺5寸(4.1m),長さ二十間三尺(37.3m)で低い欄干が付いていたとの事。
田村川は歌川広重の土山宿の絵「春の雨」の場所でもあります。 広重の絵にも低い欄干が描かれています。 下右写真が現在の田村川で現在も水は豊でした。
田村川を過ぎ、田村神社の杉やヒノキの木立の中を200m程歩くと「立札場」で、左に行くと東海道、右に行くと鳥居をくぐり田村神社です。
で、私は鳥居をくぐり、田村神社にお参りして行こうと。
田村神社は弘仁3年(812年)の創建で、坂上田村麻呂公を主祭神とし、嵯峨天皇や倭姫命(やまとひめのみこと)をも祀っています。
坂上田村麻呂公は平安時代の武人で延暦16年(797年)には桓武天皇から征夷大将軍に任じられています。 下写真左が本殿への参道,下写真右が本殿です。
田村神社の参道を真直ぐに進み国道1号線の横断歩道橋を渡った所で飴屋さんがあり、購入しました。 飴は昔からの作り方で、もち米と麦で作っておられるとの事。
(自宅に帰り食べた結果は、確かに甘いのですが稲わらのにおいがして、現代の美味しさに慣らされている私には美味しいとは言い難い物でした。 多分これでも江戸時代は本当に甘く美味しい高価なものだったのでしょう。)
前日家を出る時は「鈴鹿峠越え」で体力を使い果たし、ここ田村神社からバスに乗り近江鉄道の水口駅に出ようと思っていましたが、予想外に「鈴鹿峠越え」がきつくなく、バスの時刻表を確認し、土山宿の本陣まで行こうと更に歩く事に!
国道1号線を歩道橋で横切って、右に道の駅「道の駅 あいの土山」を見ながら100m、土山宿の説明板を始め石碑等があり、土山宿の入り口に着きました。
(江戸時代の土山宿の入り口はここから750mも先の来見橋(くるみばし)だったらしいのですが、ここから商家や旅籠等が続いていた様で、実質土山宿の入り口です。)
上記土山宿の入り口から400m左の所にはお地蔵さんの祠が有り、又、「お六櫛の三日月屋」さんの表示も幾つかありました。
お六櫛は目の細かい丁寧な作りで有名だった様で、その始まりは「1669年に信濃の旅人が伊勢参りの後京見物に行く途中で病に倒れ、土山の生里野の民家で介抱し助けられた。 その旅人がお礼にと「お六櫛」の製法を伝授すべく再度土山を訪れた」という事の様です。
お地蔵さんから300mで、地域の方が運営する「扇屋(櫛や扇を販売していた)伝承文化館」が有り内部を見学でき、無料休息所になっていました。
更に100m程歩くと「一里塚」が有りました。 実は約400m手前のお地蔵さんの所に下右写真の石碑があり、左江戸に150里,右京に15里とありました。
(既に日本橋から600km歩き、後60kmで京都。こんなに歩いた「俺ってすごい!!」と自分に感心。)
で、上記扇屋さんの休息所から約450km、「来見橋」に到着です。 ここ迄に多くの商家や旅籠跡がありましたが、ここが江戸時代の土山宿の入り口です。
来見橋から約300m歩いた左側に「旅籠 井筒屋跡」そして右側の酒屋さんの2軒先が「旅籠 平野屋跡」がありました。 その斜向かいはカフェとそばの「うかい屋」さんです。
文豪森 鴎外の祖父で「森 白仙」が文久元年(1861)に、ここ旅籠 井筒屋で病死した。 森 白仙は代々津和野藩主亀山家の典医を仕えた家柄です。
旅籠 平野屋さんは、森 鴎外が明治33(1900年)年3月2日祖父森 白仙の墓参の為土山を訪れ」1泊した旅籠です。 近くの河原の墓地に埋葬された白仙の墓が荒れ果てており、見かねて南土山の常明寺に埋葬。 後に白仙の妻と娘ミネ(鴎外の母)と共にこの寺に葬られたが、更に昭和28年3人の墓碑は津和野の永明寺に移葬された。
下写真左は井筒屋跡で、右が平野屋跡の石碑です。
(井筒屋さんの写真は車が駐車しており撮る事が出来ず、下の先人のページの写真を借用しました。 この方は地図等もきちんと整理したページになっております。
http://nonbiritabi.edo-jidai.com/toukaidou/toukaido_doucyuuki_index.html )
カフェとそばのうかい屋さんの1軒先に「二階屋本陣跡」が有りました。
代々忠左衛門と名乗り、史料上の初見は延宝8年(1680年)で以降本陣を務めたが、幕末には衰微し西側の大旅籠の大黒屋が代わりに本陣を務めた。 伝馬館の方の話によると建物は江戸時代のままだが大幅に改築しているとの事。
二階屋本陣のはす向かいの伝馬館入り口の所に「問屋場跡」が有りました。
問屋場と言うのは公用通行の荷物や人馬の中継、宿泊施設の手配等を行う場所です。
尚、ここの問屋場は明治になり廃止され、その施設は成道学校として利用されました。
又、下右写真のお宅は問屋場跡から3軒先右側の家で「問屋宅跡」と表示されていました。
土山宿には「問屋場跡」と「問屋宅跡」と二つの石柱が有り、問屋宅跡の説明板には「土山宿には東海道を挟んで「北土山村」と「南土山村」の二村が並立する二つの行政組織が存在した。 土山宿の問屋はこの両村を纏めて宿駅業務を運営」と説明されていました。
そして、「問屋宅跡」の隣が「土山家本陣跡」です。
土山家本陣は寛永11年(1634年)3代将軍家光が上洛する際に設けられた本陣です。
土山家の初代は甲賀武士 土山鹿之助で、3代目喜左衛門の時に初めて本陣職を務め、参勤交代が無くなる明治3年(1870年)10代目喜左衛門の時に本陣の役目を終えた」との事。
又、伝馬館の方によると本陣をしていた時代の貴重な資料が多数保管されており、写真の建物は昭和初期に建てた家ですが、本陣時代の家と同じに建てたそうで、見学は予約制との事。
最後に土山宿の「東海道 伝馬館」に寄りましたが水口駅まで行くバスの時間もあり、短時間の滞在となりました。
三重県では毎回の様に雨や雪に合い、予定変更の連続でした。
今回やっとの事相性の悪かった三重県を脱出する事が出来ました。
滋賀県はどうなるのだろうか??? 多分好天に恵まれ順調に進むといいな!!!
ジャガー Eタイプで横浜赤レンガ倉庫のヒストリックカーディに参加。 [クラシックカーショー 神奈川県]
11月9日、横浜ヒストリックカーディに参加して来ました。
このクラシックカーショーは8回目を迎えましたが、私は現在皆勤賞!!!
11月9日も朝早めに出発し、道がすいていた事も有り会場近くには7時30分頃に到着。 で、会場近くを周回し、写真を取ったりして時間をつぶしました。
横浜税関前
8時10分頃に会場入りし、指定位置に駐車し展示開始です。
横浜赤レンガ倉庫前催し物広場が会場です。 既に多くの参加車が到着していました。
西側にはランドマークタワーも見え、
東側には大桟橋。 青地に白の"X"マークは大型客船で、大桟橋ビルも見えます。
ほぼ10時から開会式、
10時の開会から閉会の4時迄大変な人出でした。 1・2万人だそうです。
で、私の車も結構な人気でした。
一般来場者の人気投票でトップクラスとなり表彰された。 このショーでの表彰は2回目! 賞品は紅茶、トロフィーでも用意すればいいのに。
勿論、会場には素晴らしい車が一杯でした。
ジャガーXK120
アメリカ車達,
MG 1930年代の車と思う。
展示車の中には素敵なデコレートした車も。 ミニのトラベラー
横浜は日産自動車発祥の地。 今回の気になった車達には日産車を取り上げてみたい。
日産車は何処のクラシックカーショーに行っても数多く参加しており、しかも単一車種でなく多くの車種が参加しています。 これは、日産がどの車種も丈夫で長持ち,しかも魅力ある車を作っていた証拠だろう。
左側初代のフェアレディ(1960~1962),右2台が2代目フェアレディ(1962~1970)です。 最初のフェアレディと言う名前は輸出車で、その後輸出車はダットサンスポーツに。 国内がフェアレディにと名前が入れ替わりました。
2代目フェアレディでヨーロッパのライトウエイトスポーツに追いつきました。
初代フェアレディZ(1969~1978)
日産のスポーツカー造りとして大きく前進した車で、アメリカでは「買ったばかりのポルシェを下取りに「Z」を購入しに来たというお客が多くいたとか。
奥2台が240ZG,手前1台が2バイ2(2+2)他にS20エンジンを積んだZ432も参加していました。
日産オースチン(1955~1960)
戦後の混乱やGHQの規制等にる車造りの遅れを取り戻し、当時の最新の車造りを学ぶ為にイギリスのオースチンからノックダウン生産していた車です。
(ノックダウン生産とは、部品を輸入し組立てて車にする物で、徐々に部品を国産化していった。) この頃はいすゞのヒルマンや日野のルノー等もノックダウン生産していました。
手前がローレルのハードトップ(日産初のハードトップ車だったと思う,1968~1972)
右奥が3代目のセドリック(1971~1975)。
セドリックは上記オースチンの後を受けて日産の中型車として1960年から販売を開始しました。
ブルーバードで、手前が2代目(1963~1967)、奥が3代目のブルーバード(1967~1972)です。
ブルーバードはダットサン セダンの後を受け1959年から販売された車で、2代目は尻下がりで不評でした。
3代目は今では当たり前になったエンジンのオーバーヘッドカムシャフトや4輪独立懸架のサスペンション,フロントウインドーの三角窓廃止等を国産車として初めて量産化した車です。
スカイラインで、手前から2~4台目までが3代目(1968~1972)、一番手前が4代目(1972~1977)です。 初代は1957年からで、3代目スカイラインが日本グランプリ等の自動車レース50連勝(49連勝と言う人も)した伝説の車でそのエンジンを街中でも走りやすい様にディチューンした車が2000GTRです。
最後に サニー(1966~1970)です。
日産の大衆車として開発された車で、今回の参加車はクーペでした。
1965年末車名を公募し、800万通のもの応募があり、その中から選ばれた名前が「サニー」でした。
(800万通と言ってもネット応募ではありませんよ! ほとんどが「はがき」です。)
今、日産は経営陣に色々な問題が起きている。
いい車を作っていた日産を、ルノーを始め今の経営陣がぶち壊している様に思えてならない!
元をただせば、バブル崩壊時に借金地獄に陥れた歴代社長連中の怠慢だろう!
是非もう一度活気を取り戻して欲しい。 何よりニューモデルを出す事が先決だろう!
===================================================================
何時もつたないブログをお読み頂きありがとうございます。
下記はブログランキングのアイコンです。 是非クリックし応援をお願いします。
名車・クラシックカーのランキングへ
「旅 ; 街道・古道」 のランキングへ
ジャガー Eタイプで「The 銀座 RUN」に参加して来ました。 [ カーショー 神奈川以外]
11月4日の「The 銀座 RUN]」は東京中央区のお祭り「中央区まるごとミュージアム」のイベントとのコラボで行われました。
4日朝、同行の友人が予想以上に早く我が家に来られましたので、予定より早めに出発と思い、出発前の点検をしたところブレーキランプの点灯が異常でした。
ブレーキを踏みと右ランプが左に比べ暗い(テールランプの点灯か?),ヘッドランプ等のランプ類を点灯した時はブレーキとテールのランプが点かない。
で、テール&ブレーキランプの何処かのアース不良と推定。 室内のランプカバーを外し配線を確認したが異常なし。 次にリアーランプのレンズを外し、電球を外し再度組み付けて点灯チェックすると問題なく点灯。 テール&ブレーキの電球のアース不良でした。
ちょっと時間を費やしましたが、気を取り直して丁度7時に出発です。
で、集合場所の東京中央区の築地場外市場駐車場に8時半頃到着。
受付を済ませ、私は気になった車の撮影や知人への挨拶等 勝手な行動を!
その間、友人はスタンプラリーの駒地図を一生懸命に点検。
開会のミーティング
早めにラリーの先頭車が出発し、私も前走車を追って出発です。
銀座やお堀端,豊洲を回るコースです。
場外市場の駐車場を出てすぐに人ごみの食堂街。 人と接触しない様に慎重にゆっくりと!!
日本橋のスタンプラリーカー 迫力満点のキャディラック。
東京駅前 ロールスロイスと東京駅駅舎(大正14年,1914年)とどっちが古いのだろうか?
私も東京駅前を通過しました。 スタッフの方が写真を撮ってくれました。
銀座通りや皇居のお堀端,東京駅前等を回って13時過ぎに集合場所の築地場外市場駐車場に戻って来ました。
今回、気になった車達は「小さな車達」です。
(今回のクラシックカーショーはアメ車等大きな車が多かった為あえて"小さい"をテーマにしてみました。)
日産のチェリーX-1R 1972年型 東京大学のクラブチームの車です。
トヨタ スポーツ 800 1965型(通称 ヨタ8)
フィアット 500F 1969年型
スバル 360 1969年型
ヒルマン インプ
その他
ブガッティ
フォード モデル A 1931年型
(私のアメリカの友人のお父さんの車(クライスラー)にそっくりで、懐かしくアメリカにいた頃の事を色々と思い出してしまいました。)
アメリカの友人の父の 1930年型 クライスラー
で、私たちは閉会よりちょっと早目の15時頃に帰宅の途につかして頂きました。
何時もの事ながら、エンジンが止まらないか? オーバーヒートしないか? 夜になるとオルタネーターの発電力不足でバッテリーが上がらないか? 等々朝の出発から帰宅迄不安が一杯でしたが全く問題なく帰宅出来ました。
良かったァ~~~ よかったァ~~~
イベントスタッフの皆さん楽しい時間を有難う御座いました。
===================================================================
何時もつたないブログをお読み頂きありがとうございます。
下記はブログランキングのアイコンです。 是非クリックし応援をお願いします。
名車・クラシックカーのランキングへ
「旅 ; 街道・古道」 のランキングへ
東海道五十三次,坂下宿から土山宿 その1:鈴鹿峠越え [ 東海道五十三次]
連日雨が降ったり止んだりの中、先日、東海道五十三次の内の西の難所と言われていた
「鈴鹿峠越え」の亀山市の坂下宿から滋賀県甲賀市の土山宿迄を歩いて来ました。
鈴鹿峠がどの位きついのか、峠越えの後次の集落迄どの位時間がかかるのか分からない為、
峠超えには十分な時間を確保しようと、前日関駅近くのホテルに宿泊し翌日早めに出発。
今回は天候の具合から出発日を変更し日曜日になってしまった為、タクシーで前回の終点「坂下宿の岩屋十一面観世音菩薩」前に9時頃到着。
(坂下迄行く公共交通はコミニティバスのみで、日曜日はバスがお休みなのです。)
鈴鹿峠は、
伊勢の国(三重県)と近江の国(滋賀県)の国境で、標高378mの峠です。
都が奈良盆地に有った頃は伊勢から加太峠を通り伊賀へ抜けるのが東海道だった。 仁和2年(886)伊勢から鈴鹿峠を通って近江に入る「阿須波道(あすはどう)」と称する新道が開かれ、この鈴鹿峠越えが東海道の本筋となった。
昌泰元年(898)伊勢神宮に下った勅使が山賊に襲われ、又、建久5年(1194)には源頼朝が近江国山中の地頭山中氏に山賊退治を命ずる等、山賊が横行していた峠でもあった。
前回の終点の「坂下宿の岩屋十一面観世音菩薩」前です。 地面を見ると鈴鹿峠を越えた土山宿の「蟹が坂」から出迎えに来てくれたのか「沢蟹」が待っていてくれました。
十一面観音菩薩前から歩くこと550m、国道1号線と別れ峠への山道を登ります。
国道と別れ、5分位奥に入った下写真左側の杉林が「古町」と言われる旧坂下宿です。
慶安3年(1650)9月の大洪水で旧坂下宿は壊滅、1年後に1km程くだった現在の坂下に宿場を再建しました。
前方を歩いている方々はボランティアの方々で、市職員の方々と共に「片山神社」とその周辺の遊歩道をメンテナンスしに行かれるのだそうです。 ご苦労様です。
上写真の古町から2・3分進むと左に可愛い滝がありました。
後で分かったのですが、この滝の水は片山神社脇から流れてきていました。
小さな滝から4分ほどで片山神社に出ました。
片山神社は、古くは「鈴鹿明神」「鈴鹿権現」等と呼ばれ延喜式内社に列せられている神社で古代から信仰を集めてきました。 元は二子山に祭祀されていたが、火災により永仁2年(1294)現在地に移された。 尚、今は2002年の放火で昔の社は無くなってしまった。
旧東海道はこの辺りから「鈴鹿坂八丁二十七曲がり」の急坂が始まり「東の箱根峠、西の鈴鹿峠」と言われた難所であったとの事。
下写真左が以前本殿があった所(今回のボランティアのメンテで草刈りをされるのでは?)
下写真右が神社内石垣の中段に祀られた本殿の社に相当する祠
で、旧東海道は片山神社前の右手からつづら折れの急坂が始まります。
つづら折れの最初の坂道には「鈴鹿流薙刀術発生之地」や1700年から1800年初めの延享,文化,享保年間の灯篭が立っていました。 灯篭坂とも言われている様です。
つづら折れの急坂には石畳の坂や階段もありました。 下右写真のコンクリート造りの部分は国道1号線の為の施設で、旧東海道は国道下の階段を上ります。
片山神社から10分程度で国道1号線の下をくぐり階段を上ると国道と同じ高さの広場に出ます。
更に下写真の黄色い矢印の所から峠の頂上に向かいます。
上写真の所から登り始めて2・3分で「馬の水のみ鉢」というものがありました。
昔街道を上り下りする馬の為の鉢で、コンクリート製でなく時代考証して欲しかった。
馬の水のみ鉢から3・4分歩いた所に、片山神社からつづら折れが始まって初めて遠くの山々が見える所に出ました。 絶景でした。
馬の水のみ鉢から10分弱歩いた所で、「鈴鹿峠の頂上」で「鏡岩」との分岐点に出ました。
一昨年「腰の脊柱管狭窄症」が再発し、その後「強度な狭窄症による痛み」は回復したものの腰や股関節の痛みが発生しており、体力の低下と併せ考えると鈴鹿峠を越えられるか心配でならなかった。 それが、それほど頑張らずに峠の頂上に着いてしまった様です!!!
で、余力があった事も有り、田村神社跡の石碑の前を通って鏡岩を見に行きました。
鏡岩は、三重県の指定天然記念物となっており、岩石の種類は珪岩。
断層が生じる際に強大な摩擦力で研磨され、岩面の一部が青黒色の光沢を帯びた平らな鏡肌(スリッケンサイド)となったとの事。 鏡岩の平らな鏡肌面は縦2.3m、横2m。
下左写真奥の岩が鏡岩です。 下右写真の岩の中央部分が磨かれた様に平らになっており、これが鏡岩の由来だと思います。
鏡岩からは国道1号線や向いの山々が見え、絶景でした。
鈴鹿峠の頂上で鏡岩との分岐点迄戻り、猪の豚コレラ菌が拡散しない様にと置かれていた石灰の箱を開け、靴に付け消毒しました。
で、峠の頂上で鏡岩との分岐点から1・2分程歩くと三重県(伊勢の国)と滋賀県(近江の国)の県境でした。
三重県との県境から3・4分歩くと小さな公園にひときわ大きな常夜灯が有りました。
「万人講常夜燈」で、江戸時代に金毘羅参りの講中が道中の安全を祈願して建立したものだそうです。 高さが5.44mの自然石で、地元の山中村をはじめ、坂下宿や甲賀谷の人々の奉仕によって出来上がったと伝えられています。
鈴鹿峠を越え滋賀県に入りましたし、レポートが長くなりましたので中断し、続きは近日中にアップします。
三重県では、
愛知県の宮宿から三重県の桑名宿への「七里の渡しの船」が台風で通常10月の予定が翌年3月に延期されたのを始め、石薬師宿では大雪にあう等、毎回天候不順により予定を変更した。
実は今回も天候を見ながら計画の延期に延期を繰り返し、ようやく10月22日出発の予定でホテルを確保しましたが大雨の予報で23日の出発となり、ホテルは割高で、しかも24日は坂下宿迄タクシーで行く羽目になりました。
三重県の方々には大変お世話になりましたが、私にとっては大変相性の悪い県の様で、今回無事に滋賀県入り出来てほっとしています。