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二条城の見学と嵯峨野のトロッコ列車 [ 旅行 関西以西]
東海道五十三次歩きも今回が最後と思い、東海道を歩く他に、思い切って京都に数日滞在し「京都御所」や「二条城」等を見学させて頂きました。
二条城は京都滞在3日目でなんと大雨! 雨降る中傘をさして10時頃ホテルを出て、地下鉄烏丸線で烏丸御池駅に行き、地下鉄東西線に乗り換え二条城前駅で降り、堀川沿いに少し歩き「二条城の東大手門」の前に到着。 券売所で入場券を購入し東大手門から入場しました。
東大手門から入って右手が番所、左手に総合案内所があり、私はこの案内所で日本語のガイドツアーを申し込みました。 英語のツアーもある様です。
入場料は二の丸御殿の見学も含め1300円、更に日本語ガイドツアー料1500円の追加でした。
二条城のホームページは右記です。 https://nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp/
下記ページは割合分かりやすく二条城を説明しています。
https://www.travel.co.jp/guide/article/22984/
二条城前駅を降りた所で、二条城の「東南隅櫓」が見えます。
「東大手門」、二条城の正門にあたります。
下写真は東大手門を内側から見た所で、現存の門は寛文2年(1662年)頃の建築と考えられています。 築城当時は現在の様に櫓門(2階建て)でしたが、天皇の二条城行幸時(寛永)には天皇を2階から見下ろさない様にとの配慮から一重の門に建て替えられたとの事です。
左の建物は寛文3年(1663年)に建てられた「番所」で、普段は幕府から派遣された「二条在番」と呼ばれる武士達が宿直・警護しております。 この番所はその詰め所の1つで、現存する城郭の番所としては全国的にも少なく貴重な建物だそうです。
下写真中央は「東南隅櫓」を内側から見た所で、白いテントの左側が総合案内所、ここで日本語ガイドツアーを申し込みました。 ツアーは9時30分,11時30分出発の2回で、私は11時30分を申し込み。 出発10分前位にこの申し込み場所に集合しました。 今回は大雨の為か5人のツアーでした。
ガイドさんはこの番所前広場で、雨の中二条城の由来や歴史を説明されていましたが、参加者は雨と寒さの為早く次に進みたい様な雰囲気でした。
二条城は世界遺産で、1603年(慶長8年)に徳川家康が上洛した際の宿泊所として築城され、徳川家康が征夷大将軍に任命された際の重臣や公家衆等を招いての祝賀の儀を行った事も。
3代将軍家光の時代、後水尾天皇行幸の為に城内は大規模な改修が行われ、二の丸御殿にも狩野探幽の障壁画などが数多く加えられました。
又、徳川幕府の大政奉還がここ二条城で表明されました。 江戸時代の始まりから終りにあたっての大事な場所だった訳です。
下写真が「唐門」で「二の丸御殿」の正門にあたります。
2013年に修復工事が行われたとの事で本当に綺麗な門でした。 写真の白い縦線は雨です!!
この門には菊の御紋が多く使われていますが、家光の時代に天皇が行幸された際の御紋の変更、更には明治中期に二条城が離宮となった際葵の紋から菊の紋に変えられたようで、2013年の修復時菊の紋の下から葵の紋が出て来た所もあったとの事。
外側から見た唐門の彫り物で、松竹梅に鶴や龍が描かれ素晴らしかったが、冷たい雨の中での説明でうわの空で聞いてしまいました。
内側から見た「唐門」です。 黄色いジャケットの方がツアーガイドです。
内側からの唐門の彫り物です。 外側の彫り物とは鶴や蝶等が微妙に異なっています。
で、やってきました!!!
2004年にアメリカから帰って来て、何時かは行ってみたいとズ~~ッと思っていた所です。
二条城の「二の丸御殿」御殿で、多くの人がおられる所が「車寄」です。
下記二条城のホームページでは下記の様に説明されていました。
https://nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp/introduction/highlights/overview/
「東南から北西にかけて、遠侍(とおざむらい)、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟が雁行形に立ち並ぶ御殿です。部屋数33室、800畳余りもある内部は、代表的な「松鷹図」をはじめ、将軍の威厳を示す虎や豹、桜や四季折々の花を描いた狩野派の障壁画(模写画)で装飾されています。」
二の丸御殿には車寄の右側から入りますが、二の丸御殿の内部は撮影禁止でした。
で、二の丸御殿に入り4・50分かけて、狩野派による障壁画や欄間の彫刻、大政奉還を協議,発表した部屋等の説明を受けながら見学いたしました。
二条城内部を見学した後、ガイドツアー特別見学として「御清処」・「台所」を外から見学。
最後に「二の丸庭園」に回り見学しました。
庭園側から見た二の丸御殿です。
二の丸庭園です。
3代将軍家光の上洛以降、14代将軍家茂が上洛する迄の、229年間将軍不在のまま幕末を迎え、庭園は荒れ、15代将軍慶喜の上洛時には樹木はほとんどなく、池は枯渇して枯山水風の庭園景観の様で荒廃していました。 大政奉還後二条城は転々と所管が変わり、宮内省に所管されてからは5回以上改修が行なわれ、特に離宮時代に行われた植栽工事は、幕末の庭園景が変貌する程の大規模な改修工事で、今日に至る基本的な景観が完成したと考えられているそうです。
残念ながら本丸御殿は修理中で見る事は出来ませんでした。
また見るチャンスが来るかなァ~~~???!!!
で、名残惜しく最後の記念撮影をして二条城を離れ、
雨も小降りから止みましたので嵯峨野のトロッコ列車にも乗って来ました。
嵯峨野のトロッコ列車は、保津川沿いをゆっくり走るトロッコ列車で、JR山陰線の複線化によって使われなくなった線路の観光利用を目的として、平成2年(1990年)社長以下9名のスタッフがで発足(嵯峨野観光鉄道株式会社)した鉄道です。
私は、始発駅のトロッコ嵯峨駅から乗り、終点のトロッコ亀岡駅で引き返す往復乗車。 保津川の渓谷を楽しむ事が出来ました。 ちょっと寒かったけどね!
下写真はトロッコ保津峡駅、昭和初期から使われていたJR保津峡駅の旧駅舎を利用しているそうです。 この存在感から第2回近畿の駅百選にも選ばれたそうです。
(ここで降りて散策すれば良かったと反省中!)
トロッコ亀岡駅近くの保津川と亀岡市街
今回の東海道五十三次は、京都観光の様相を呈してしまいましたが、楽しく、寒い冷たい雨もいい思い出になりました。
京都御所を見学 [ 旅行 関西以西]
東海道五十三次歩きも今回が最後と思い、東海道を歩く他に、思い切って京都に数日滞在し「京都御所」や「二条城」等を見学させて頂きました。
尚、京都御所は昨年「京都迎賓館」を見学にした時御所の外周を一周し見学させて頂きました。
京都御所の外周の見学をした時の記事は下記です。
https://hisashi1946.blog.ss-blog.jp/2023-03-04
京都御所は一般公開されており、見学の申込みや予約は必要なく、現地に行くだけで見学できます。しかも、自由参観のほか職員による日本語や英語・中国語による無料案内も行っております。 詳細は下記の宮内庁のページを参照願います。
https://sankan.kunaicho.go.jp/multilingual/information.html
私は地下鉄烏丸線の「今出川駅」で下車。 少し大きめのバックを今出川駅のコインロッカーに預け、必要最小限の手荷物で京都御所の「清所門」から入門。
門には警察官がおりましたが「お早うございます」程度の挨拶で、門を入ると係員による手荷物検査が行われ、それがすむと清所門の右側の待合室に入りました。 自由見学される方は待合室に入らずそのまま自由に見学も出来ます。
尚、待合室にも少しですが鍵付きロッカーがあり、自由に使用出来る様です。
下写真は昨年2月に御所の外周を見学した時の「清所門」で、今回はここから入場です。
日本語ガイドの案内開始時間は 9:30,10:30,13:30,14:30 の4回行われ、開始時刻になるとガイドの方が待合室に来られ、少しの注意事項を説明され、「これから日本語によるガイドを行います。ついて来て下さい。」の様な事を言われついていきます。
(本当にフランクなツアーで、同行の方々も節度を守りつつフランクに見学されていました。)
ガイドの方の案内で、最初に訪れたのは「宜秋門(ぎしゅうもん)」です。
次に「御車寄(おくるまよせ)」
昔は御所に参内(皇居に参上すること)する人は牛車を使って、上の宜秋門から入り、この御車寄で牛車を降りて、内裏の中に入ったとの事。(レンズにゴミが付いていた!)
次は「諸大夫の間(しょだいぶのま)」
参内した大名等が案内されるのを待つ部屋で、虎の間、鶴の間、桜の間があり、身分に応じてそれぞれの部屋に通されました。 虎の間が一番身分の高い部屋なのだそうです。
「新御車寄(しんみくるまよせ)」です。
明治維新以降は参内の際に馬車や自動車を使う様になり、新しく御車寄を作る必要がありました。 即位の礼のために、京都におられた大正天皇用にと作られたのがこの新御車寄(しんみくるまよせ)です。
建礼門(けんれいもん)
御所の一番南側の門が下写真の建礼門で、御所の正門にあたります。 正門というだけあって、その荘厳さは格別。 ほかの門とは、雰囲気も違うように感じます。
2023年2月20日の時に御所の外から見学した建礼門
承明門(じょめいもん)とその周りの回廊(かいろう)
紫宸殿(ししんでん)
左右対称の大きな美しい造りの建物で、ここは即位の礼等を行ってきた場所だそうです。 広い前庭には白砂が敷き詰められています。 中に入る事はできないが、門の外から眺めるだけでも立派な歴史を感じる建物です。
紫宸殿の前には「左近の桜」と「右近の橘(たちばな)」が植えられています。 左近の桜はもともとは梅だったが乾枯したのを機に仁明天皇の時に桜に植え替えられたとの事。
また、紫宸殿には天皇の即位の際に使用される高御座(たかみくら ※天皇の玉座)が保管されています。
紫宸殿の裏側です。 (裏側と言えども壮観です。 奥の建物は清涼殿です。)
春興殿(しゅんこうでん)
春興殿は,大正天皇の即位の礼に際し,神鏡を奉安して儀式を行うために建てられた御殿です。 昭和天皇の即位の礼でも使用されました。 その後老朽化が進み、平成 29 年から 31 年にかけて修復が行われ,造営当時の外観を取り戻しました。
清涼殿(せいりょうでん)
平安時代中期(10世紀中頃)以降天皇の日常のお住まいとして定着した御殿であり、政事・神事などの重要な儀式もここで行われていました。 天翔18年(1590年)御常御殿(おつねごてん)にお住まいが移ってからは、主に儀式の際に使用されました。 伝統的な儀式を行う為に平安中期の建築空間や調度が古制に則って伝えられているとの事。
小御所(こごしょ)
室町時代、将軍参内のとき、休息したり装束を改めたりする為に設けられた所であり、 江戸時代には天皇が諸種の儀式や将軍・大名・幕府の使者等を謁見及び皇太子の元服などの儀式に用いられた建物との事。 明治維新の慶応3年(1868年1月)に徳川慶喜の処置を決める為のいわゆる「小御所会議」が開かれた場所でもあります。 安政度造営の小御所は1954年(昭和29年)8月16日に鴨川の花火で全焼し、現在の子御所はその4年後に安政度子御所を忠実に再現、再建されたものです。
子御所の前の「御池庭(おいけにわ)」
「御学問所(おがくもんじょ)」とその前庭が「蹴鞠の庭(けまりのにわ)」
御学問所は、内部・外観ともに書院造で、徳川家康による慶長度の造営時に初めて設けられた建物で、講書始などの行事が行われたほか、学問ばかりでなく遊興の場や天皇が公家らと対面する場としても用いられた。
蹴鞠は、約1,400年前に中国から伝えられた球戯の一種で、勝敗を争うのではなく、いかに蹴りやすい鞠を相手に渡すかという球戯です。鞠装束姿の人々が鹿革製の鞠を蹴り上げる様子は、歴史的な伝統と文化を感じます。
御常御殿(おつねごてん)
御常御殿は天皇の日常生活の場として用いられた。当御殿では孝明天皇と明治天皇が東幸するまでの住まいだった。またここから先は明治維新期まで奥向きの御殿とされ男子は稚児と老侍以外は男子禁制とされお付きの女官や女御など女性や女子のみしか立ち入りを許されなかった。
御常御殿の前の「御内庭(ごないてい)・錦台(きんたい)」
迎春(こうしゅん)・御涼所(おすずみしょ)・聴雪(ちょうせつ)
迎春は孝明天皇が書見(勉強)の場として建てた。
御涼所は迎春の北に接続する入母屋造、檜皮葺、東西棟の建物で、京都の暑い夏を快適に過ごすことを主眼とした建物。
聴雪は他の建物よりやや遅れて安政4年(1857年)に孝明天皇の好みで建てられたもので、寄棟造、杮葺の数寄屋造建築です。
御三間(おみま)
御常御殿の隣の小さな建物で、上段、中段、下段の3室からなり、涅槃会、茅輪、七夕、盂蘭盆などの行事がここで行われた。
で、名残惜しみながら京都御所内を後にし、清所門から外に。
東海道五十三次 大津宿から京都三条大橋 その2(山科から三条大橋) [ 東海道五十三次]
先日、3ヶ月ぶりに東海道五十三次を歩いてきました。
そして今回は京都の三条大橋に到達しました。
2009年12月15日 東京の日本橋を出発し、
先日2024年3月11日 京都の三条大橋に到着しました。
14年と3ケ月かかりましたが旧東海道五十三次を完歩しました。
東海道五十三次を完歩する迄には本当に色々な事がありました。
アメリカに赴任していた2002年頃に左顎の下に直径1cm位のしこりが出来、検査の結果悪性ではないとの事でした。 しかし、帰国後の 2008年初め頃から徐々に大きくなり、2009年5月にはゴルフボール大にまで成長し入院・切除しました。 切除した部分の検査結果は「顎下線がん」との事。 切除の為の入院や放射線治療で体力は減退、駅の階段も踊り場で休息し登る程になってしまいました。
顎下線がんの闘病記は下記ブログのカテゴリーでレポートしていますが、最初の記事は https://hisashi1946.blog.ss-blog.jp/2009-05-31 で、この記事から見ると良いかも。
https://hisashi1946.blog.ss-blog.jp/archive/c2300593372-1
そこで低下した体力の回復度合いを見る為にもと「東海道五十三次」を歩く事にし、2009年12月15日東京日本橋から出発。 当初順調だったが2011年2月に箱根の山を登った所で椎間板ヘルニアになり2年半も中断、更には2017年2月にも愛知県の池鯉鮒宿(知立宿)に到着後椎間板ヘルニアが再発約1年間中断しました。
更に新型コロナが広がり2020年2月滋賀県の水口宿に到着後2年9ヶ月中断中。 2022年9月に再開、そして今回2024年3月 78歳と1日目にやっと三条大橋に到着、完歩となりました。
何はともあれ、今回の出発地である京都市の山科駅からの旅行記です。
3月10日に家を出て京都御所を見学、翌11日9時頃ホテルを出てJR山科駅に9時20分頃に到着、歩き始めました。
山科駅前から旧東海道を歩き350m、左側に「愛宕常夜燈」と言う表示のスリムな灯篭を発見。
更に進み駅前から500m、「五条分かれ道標」と言う近代的な金属の道標と、宝永4年(1707年)11月建立の古い道標を発見。 古い道標には「右ハ 三条通」とあり旧東海道の事。もう片面には「左ハ 五条橋 ひがしにし六条大佛 今ぐまきよ水 道」と書いてあり、ここから牛若丸の五条大橋に行く事が出来る様です。
更に道なりに駅前から900m進むと県道143号線との交差点に出た。 ここを右折し143号線に沿って進み、JRのガードをくぐり、ガードから約100m右側「天智天皇 山科陵」の入り口(下写真)に着いた。
この天智天皇 山科陵の向かい側に、下写真の様に「旧東海道」の道路標識が2か所に掲示されていた。 で、標識に沿って左折し細い路地に入って行きます。
路地は比較的狭い物の、143号線から分かれ500m位の所の水路迄はほぼ平坦な道が続き、その後急な坂となり「日岡峠」越えへと続きます。 下写真は143号線から300m位のまだ平坦な道の所です。
急坂の途中、143号線から700m位の所に「亀の水不動尊」がありました。
以前は道路からでも本尊の所(黄矢印)を見る事が出来た様ですが、今は衝立が有り覗く事が出来ません。
この亀の水不動尊を過ぎ少し上るとほぼ平坦な道になります。 また、143号線から分かれ旧街道に入ったあたりからはきちんと手入れをされ着飾ったお地蔵さんが多数ありました。
亀の水不動尊 よく手入れされ着飾ったお地蔵さん
で、急坂を上りきり、143号線と別れてから1.2km位で再び143号線を眼下に見る事だ出来ました。 更には1.4kmで143号線と合流、その先には「日岡峠」の石碑やモニュメントのある広場に出ました。
下右写真の石碑(下左写真の空色矢印の所)にはモニュメントの出来た由来や地下鉄東西線開通時の状況等が説明されていました。(写真をクリックすると拡大表示されます)
尚、143号線を眼下に見えた所には旧東海道の道標「旧東海道道標 (日ノ岡の峠道)」があった様ですが見落としてしまいました。
日岡峠のモニュメント モニュメントの出来た由来
143号線に合流してからはやや急な下り坂で、日岡峠のモニュメントから約300m「粟田口刑場跡」に到着しました。
下左写真は「九条山」交差点で、下右の写真は左写真矢印の所を見た写真です。 黄色矢印が粟田口刑場跡等の説明掲示板です。
粟田口刑場跡の掲示板 ; この掲示板には大変多くの事が書かれています。
この地は「日岡峠」に次ぐ高い所で「粟田口峠」と言われていた。 文化年間に車道に車石が舗装され、幕府最後の慶応3年(1867)には急峻な日岡峠を避け新道が作られた結果粟田口峠が最高所となり明治以降はこの粟田口峠が日岡峠と言われる様になった。 その後明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)や現代にいたる開発、昭和6~8年の京津国道改良工事等で景観は一変したとの事。 また、ここは都と郊外との境で江戸時代には公開処刑場「粟田口(日岡)刑場」として磔(はりつけ)・獄門・火刑も行われ、山裾には供養塔も建てられていた。
等が書かれています。クリックすると拡大しますので時間のある方はじっくり読んでください。
九条山の交差点から約300mで京都市蹴上浄水場の坂の上の門に到着(下左写真の矢印の所)、更に坂を下ると浄水場の正門と思われる門と地下鉄の「蹴上駅」に到着(下右写真で空色矢印が地下鉄蹴上駅の入り口)。
蹴上浄水場は広くなんと坂上の門から地下鉄入り口の所の門迄450m(グーグルによる)。
で、私は地下鉄の「蹴上駅」の地下道を通って「ねじりまんぽ」の蹴上トンネルをくぐって、南禅寺に向かう事に。
ねじりまんぽ(蹴上トンネル)
台車に乗った船が行きかう蹴上インクラインの重さに耐える様内壁のレンガが斜めに(空色矢印)敷かれています。 「まんぽ」はトンネルを意味する古い言葉だそうです。
蹴上インクラインの解説は下記を参照願います。
https://biwakososui.city.kyoto.lg.jp/place/detail/23
旧東海道から分かれ、ねじりまんぽをくぐって350m南禅寺の参道に到着。 本来「旧東海道歩き」なので忠実に街道を歩くべきですが、私はこの掟を破り南禅寺に向かいます。 掟を破ってまでも南禅寺に向かう目的は境内にある「琵琶湖疏水」の水道橋を見る為で、今回京都に来た最大の目的は「三条大橋に到着し東海道五十三次を完歩する事」ですが、「南禅寺の水道橋を見る事」はそれと同じ位大事な目的でした。
南禅寺の大きな三門 法堂も大きかった
そして目的の「琵琶湖疏水の水道橋」
琵琶湖から京都市内に向けて引かれた水路で、滋賀県大津市で取水され南禅寺横を通って京都市東山区蹴上迄の区間。 疏水の工事は1885年に始まり1889年に完成しました。
琵琶湖での取水場の様子は下記のブログで掲載しています。
https://hisashi1946.blog.ss-blog.jp/2023-12-31
南禅寺を出て、「南禅寺前」交差点から見た蹴上インクライン(鉄道)
南禅寺の水道橋を見学し、南禅寺の参道から料理屋さん「瓢亭」の前を直角に曲がり東海道(三条通り)に復帰しました。
東海道歩きは、地下鉄蹴上駅から三条大橋に向かって約300mスキップしたことになります。
お天道様許して!!!
で、旧東海道に復帰三条通りを三条大橋に向かって進みます。 この通りには古い建物と近代的にデザインされた建物が混在しており、以前何処かのテレビ局で特集されていました。
東海道(三条通り)に復帰し1.3km(地下鉄蹴上駅から三条通で1.6kmに相当)三条大橋の交差点に到着です。
下の浮世絵は歌川広重の京都(三条大橋)です。
で、記念撮影!
そして橋の下をのぞき見。
更に三条大橋を渡り「弥次さん喜多さん」にご挨拶し、記念写真を撮らせて頂きました。
で、橋全体をゆっくり見学
(普通この様な歴史のある所は"いかにも歴史ある所"を感じさせ様とするデザインが多いのですが、予想以上にあっさりした洒落たデザインでした。)
そして、鴨川も上流側(下写真左)と下流側(下写真右)を見て、
橋の袂のコーヒー店でゆっくり橋を眺めながらコーヒーとおやつ的な軽食を取り、今回は非常に疲れたので(だよね~ almost 80 years oldだもん)ので 早めにホテルに戻り昼寝休息でした。
コーヒー店からの三条大橋
終わってしまった。 私の東海道五十三次!!!
で、今回の反省は、もう少し準備運動をして体力をつけて行くべきだった!
そして、京都市内の琵琶湖疏水はもっと充分な予習が必要だった!
(友人との飲み会で「疏水の上に登り水の流れを見る事が出来る」との事。知らなかった!)
多分南禅寺周辺の琵琶湖疏水と関連施設はもう一度見学する事になるかも!
その時は「150円の自炊湯豆腐で充分」ではなく南禅寺門前のお高い湯豆腐も食べようか!
次回「東海道五十三次のハイライト編」を書けるかなァ~~~???
MG ミゼットのイグニッションキーについて [ MG ミジェット ボディ & トリム]
MG ミゼットは国内未登録の状態で手放すと決めた物の、自分で使う事を前提に「あれをしよう,これをしよう」と思っていた事があり、その一つにイグニッションのキーを2個にする事でした。
(ニュージーランドから購入した時のイグニッションキーは1個しか付いていません。)
そこで、今車に付いているキーのスペアーを作れないかと近所の鍵屋さん聞いたり、ネット検索をしましたが、何分にも古いキーである事、今車に付いているキーが「イタリアのスペアーキーメーカー」の物だった事などが判明した物のスペアーキーを作る事は出来ませんでした。
しかし、「キーを何処かに置き忘れてしまったり」と言う事がよくあり、やっぱり「安心の為にもキーは最低2個必要だよなァ~」との思いは捨てられませんでした。
そこで、ジャガーE-タイプのスペアーとして購入してあったイグニッションキー(下写真の左側)の配線が同じだった事もあり、これを組付けて見る事に!
ジャガー E-タイプ用を結線し作動チェックをしてみました。 問題なく機能しました。
しかし、ジャガー用をインストに組み付けてみると、キーシリンダーとナットとの間に段差が出来てしまいました。 原因はジャガー用はキーシリンダーのネジが短かった事で、MGの従来品はネジが長く六角ナットで組み付け位置が調整できる様になっていました。
(MGに組み付いていたキーも多分市販のキーで純正部品とか新車時から付いていたキーではないと思います。)
段差が付いたままでも機能上は問題ないのですが、やはり見てくれや何より「あッ! このキー、何かの流用品だ!」と思われるのがなんとも嫌で、やはりジャガー用のスペアーとして購入してあったキーバレルを、MGの車に付いていた従来品キーに組み付ける事に。
従来品キーを分解しました。
ごめん!
写真を掲載して見ましたが、世の旧車の安全の為にキー内部の構造が分かる様な写真は削除しました。
(今回のブログの焦点だったんでしょうけどね!)
ジャガー用スペアーのキーバレルをMGのキーシリンダーに組み付けました。
そして再度インストに組み付けて見ました。
勿論六角ナットでインストパネルからの高さ調整もおこないました。
MGでやりたいと思っていた事はこれでほぼ全てだと思います。
又、何かあったら記事にします。
もし、この車を購入し気に入って頂いたら、私の趣味はサイコー! 幸せ一杯かな!
滋賀県の琵琶湖疏水と三井寺見学 その2 三井寺 [ 旅行 関西以西]
2009年12月15日に歩き始めた東海道五十三次は、次回で終了です。
で、東海道五十三次が終わるとなかなか琵琶湖周辺には来られないかもと思い、東海道歩きはそこそこに彦根城の他、題記琵琶湖疏水と三井寺も見てきました。
1日目は、彦根城を見学し、東海道五十三次を大津宿本陣跡からJR 山科駅迄歩きました。
2日目は前回のブログの様に早めにホテルを出て「琵琶湖疏水第1トンネル東口」迄を見学。
「琵琶湖疏水第1トンネル東口」の上はT字路の様な道で、左に行っても三井寺の「観音堂」に行けますが、私は右に行き「三尾神社の山門を迂回する様に進み「総門」から入り、入山料600円を払い、左側の階段を上がり「三井寺の観音堂」に向かいました。
総門から入り、
階段を昇って行くともみじの紅葉も終盤、真っ赤な紅葉と落ち葉が晩秋を感じさせます。
所で三井寺は、正式名称を「長等山園城寺(おんじょうじ)」といい天台寺門宗の総本山です。
平安時代、第五代天台座主・智証大師円珍和尚により、天台別院として中興されました。 千二百年以上の歴史の中で、源平の争乱、南北朝の争乱等による焼き討ちなど幾多の法難に遭遇しましたが、智証大師への信仰に支えられ、苦難を乗り越え今日まで続いています。
長い趣のある階段を登りきると、観音堂に到着です。
観音堂は、西国三十三所観音霊場の第14番札所です。 後三条天皇(1034~73年)の病気平癒を祈願して延久4年(1072)に創建されたと伝えられ、その後、文明年間(1469~86年)に現在地に移されたが、貞享3年(1686)に焼失し、元禄2年(1689)に再建されました。
本尊は如意輪観音像(重要文化財)で、33年に一度に開帳される秘仏との事。
快晴の空の青が凄かった!
気候変動が激しいから冬でも「紺碧の空」と言っていいのですかね?
左が観月舞台で、観音堂前の広場からは大津市内が一望できます。
観音堂の参拝を終え、衆宝観音の前を通って「本家力餅」に。
ここの力持ちは三井寺内でしか買えないとかで、今回のお土産はここで「弁慶の力餅」を購入しました。(写真はレンズにゴミが付いた様です。)
(このお餅、黄な粉は青大豆と抹茶を混ぜた物の様で苦みがあり、餅は甘めで黄な粉との相性が良く本当に美味しかった。)
お土産も買ったし、
微妙寺の前を右に曲がり、金堂の方に約100m程進むと少し崩れかかった石橋の「村雲橋」を渡ります。
そして、村雲橋のすぐ先の左側の敷石の参道を進むと、4脚門を通って「唐院潅頂堂」や「三重塔」奥には「大師堂」を見る事が出来ました。
唐院は三井寺の開祖・智証大師の御廟として三井寺の中でも最も清浄な聖域だそうです。
又、三重塔は慶長6年(1601年)徳川家康が三井寺に寄進した仏塔だそうです。 もとは奈良県吉野の比蘇寺(現在の世尊寺)の東塔だったそうです。
三重塔等の前を通り、「一切経蔵」の前を通て、「弁慶の引き摺り鐘」に向かいます。
一切経蔵は三井寺唯一の禅宋様建築で、山口県国清寺(現在の洞春寺)の経蔵を、慶長7年(1602年)に毛利輝元によって移築されたとの事。
「弁慶の引き摺り鐘」を祀った「霊鐘堂」に到着です。
ここには弁慶が三井寺から奪って、比叡山に引き摺り上げたとの伝承の鐘と、弁慶の汁鍋が保管されています。
鐘は、「延暦寺と園城寺両門の争い」の頃に弁慶が延暦寺へ奪っていったが、撞いた所「イノーイノー(関西弁で帰りたい)」と響いた為弁慶は怒って谷底へ投げ捨て、園城寺に戻ったとの事。
霊鐘堂の裏を回り込む様に金堂の方に向かうと「閼伽井屋(あかいや)」がありました。
閼伽(あか)とは水のことで、仏に供える水や花を用意する施設が閼伽井屋との事。
閼伽井屋内に湧き出る霊泉は天智・天武・持統の三天皇の産湯に用いられたと伝えられ「三井寺」と言う名称の由来ともなったそうです。 建物は慶長5年(1600年)、建物正面上部の龍は左甚五郎の作。
閼伽井屋と金堂の間を通って金堂の前に出ました。
金堂にお参りし、更に金堂内の仏様の周りを一周する様に拝観、円空さんの粗削り仏像等を見る事が出来ました。
又、金堂の前には「三井の晩鐘」で有名な鐘楼がありました。
三井の晩鐘は1602年の再建で、宇治の平等院,高雄の神護寺と共に日本三銘鍾に数えられ、荘厳な音色は有名だそう。 この鐘は「弁慶の引き摺り鐘」の後継ぎとして豊臣家により鋳造されました。
鐘撞堂の隣に事務省の様な所があり。拝観料とは別に800円を払うと撞くことが出来ます。
(中国人の様な家族が鐘を撞いていました。)
で、金堂から仁王門に行こうとしましたが、閼伽井屋と金堂の間を通て金堂前に出た為に、仁王門の方に行く階段が見つからず、村雲橋の方迄戻ったりでうろうろしてしまいました。
金堂の東側に回ると大きな階段が見つかりました。
真っ赤なもみじすごいでしょ!!!
釈迦堂の前を通って仁王門へ。 釈迦堂の前では何故か手を合わせ一礼。
で、道に迷った挙句やっとの事「仁王門」に到着しました。
で、三井寺の見学も終え、最後の一枚を撮って京阪電車で京都のホテルに行こうと思ったが!
その最後の一枚がなんとカメラの電池切れ?! 充分に充電しておいたのに!!!
で、カメラのスイッチを切り、少し待ち再度スイッチON!
最後の一枚が、こちらです。
園城寺交差点から三井寺正門の「仁王門」を見た所です。
次回は京都三条大橋まで歩き、その前後に京都観光を計画しています。
次回は電池不足にならない様充電し、携帯用バッテリー等を持って、
・・・・ 春になったら行こう。
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