東海道五十三次 草津宿から大津宿 その3(瀬田の唐橋 から 大津宿) [ 東海道五十三次]
前々回の記事の様に、5月の暑い中東海道五十三次の 草津宿から大津宿迄を歩いてきました。 今回はその内の瀬田川の唐橋から大津宿迄についてレポートします。
今回の東海道五十三次では、出来る限り「琵琶湖迄来たァ~」を感じたく、瀬田川の中島(中州)にあるホテルに宿泊し、「紫式部」が参籠した石山寺にもお参りしました。
その後、時間の節約・体力保持の為「京阪石山坂本線」で一駅「唐橋前駅」迄乗車、旧東海道に戻り五十三次歩き再開です。
(厳密には「唐橋西詰」交差点から「唐橋前駅」迄の170mを省略した事になります。)
下写真は旧東海道の「唐橋前駅」脇から唐橋方向を見た所で、青矢印先が唐橋で、ほぼこの写真の範囲を省略しました。 目で歩いた事にします!!!

唐橋前駅から約100m程歩き、「鳥居川 交差点」を右折し、まっすぐ450m程進み「京阪石山坂本線」の踏切を渡り、更に100mで左折すると「JR石山駅」に到着します。
五十三次を歩いた先人の説明によると、東海道の旧道はこのJR駅を横切るのがより旧東海道に即しているとの事で、私も先人にならってJRの橋上駅構内を横切りました。

で、駅を横切り北側駅前に出ると大掛かりな工事が行われていました。 上記先人が歩いた頃は大きな工場だった様ですが、工事の説明板には確か「商業施設と高層住宅として開発」と書いてあったような? こんな感じで、時代が変わっていくのでしょうね???!!!

JR石山駅から大きな工場脇等を右カーブ左カーブしなから1.3㎞ 「若宮八幡宮」に着きました。 琵琶湖沿いにあった「膳所城(ぜぜじょう)」が明治3年に廃城となり、本丸の犬走門をここ若宮八幡宮に移築されたと伝えられています。
(写真をクリックすると拡大表示されます。)


又、JR石山駅から1.7㎞の所には「篠津神社」がありました。 ここも膳所城解体後の明治5年に膳所城北の大手門を移築再建されたとの事。



所でこのあたりの旧東海道沿いには下右2つの様な案内板が、民家の軒先や下左写真の青矢印の様に名所旧跡の前に掲示されていました。 この掲示板は「膳所高校、書道部」の部員達が一枚一枚書かれた様です。 書体も各自の個性で一枚一枚異なっていました。



又、この付近の街道沿いにも古いお宅が点在していました。


で、篠津神社を出て70m位で左折し、更に100m位の所に篠津神社の裏門の様な出入口があり、再度篠崎神社に入り、お参りして非常食にと購入しておいたおにぎり等を昼食代わりに食べました。
(ここ草津から大津ではズーッと街中を歩いていますので非常食は必要ないと思いますが、以前の東海道歩きでは田園地帯や山間部で昼食時間になったものの食堂等もなく困った事があり、必ず少しの食べ物を持ち歩く事にしています。)
篠津神社から250m位「音羽軒」と言う表示のあるお宅の所を再度直角に右折します。
篠津神社の入り口から650m、「膳所城跡公園前」と言う表示のある交差点から「膳所城跡公園」に行き琵琶湖を見てみようと思っていた所、「あらッ 先ほどは どうも!」と声がかかりました。 振り返ってみると、「石山寺」を参拝しておられた御夫婦でした。
少し立ち話をした所、神奈川県の私の隣の市の方で、頑張って今日、三条大橋迄歩き東海道完歩の予定との事。 又、昨日の夕食も同じ「ウナギ屋」さんでだったことも判明し、何故かチョット楽しくなってしまいました!
私は膳所城跡公園前で右に曲がって 200m、膳所城の城門に到着。 早速琵琶湖のほとりを散策。 全長1,290mの「近江大橋」も見る事が出来ました。
膳所城は、慶長5年(1600年)関ヶ原で勝利し天下人となった徳川家康は、翌年(1601年)東海道の押さえとして、大津城を廃し膳所崎に城を築かせた。 膳所城は江戸城、大坂城、名古屋城など天下普請として江戸幕府が諸大名に号令し築いた城の第一号で、藤堂高虎に計画させた。
湖の中に石垣を築き、本丸西隅に4重4階の天守が築かれた。 家康がこの地を選んだ理由として、昔より「瀬田の唐橋を征するものは天下を征する」と言われた瀬田の唐橋に近い場所であったからであると言われる。 築城された年に大津城主戸田一西を3万石で入城させここに膳所藩が成立した。以後、譜代大名の居城となった。




公園から「近江大橋西詰」と言う近江大橋の西の袂から西に向かって路地に入り約200mで旧東海道に復帰です。 で、また、東海道歩きは約300mカットしてしまいました。 チョット疲れもあり、まァいいや!との思い。
旧東海道に復帰し、住宅街を歩く事1.4㎞、街道左側の「義仲寺」付きました。
義仲寺は、木曽義仲が平家討伐の兵を挙げて都に入り、帰路源頼朝軍に追われ1184年粟津(あわづ)の地で壮烈な最期を遂げ、ここに葬った事に由来。 近江守護であった佐々木六角が、室町時代末期に建てたと言われています。 江戸時代中期には小さな塚だったそうです。
(写真をクリックすると拡大して見られます。)


木曽義仲公のお墓

巴塚
木曽義仲の愛妻巴は義仲と共に討死の覚悟で粟津に来たが、義仲の言葉に最後の戦を行い敵将恩田八郎を討ち取り落ち延びた。 その後鎌倉幕府に捕えられ、和田義盛の妻となり義盛戦死後は尼僧となり各地を廻り当地に暫く止まり、亡き義仲の菩提を弔っていたという。 更に何処となく立ち去り、信州木曽で九十歳の生涯を閉じたと云う。

義仲寺から600mで「平野神社」の入り口に着きます。
蹴鞠の神社と言われており、藤原鎌足公の創建と伝えられる神社で、随分前の事ですがNHKの「街道てくてく旅」でサッカーの岩本輝雄さんが蹴鞠をしていた神社を見たく寄ってみた。


街道歩きの先人のレポートではこの付近に一里塚があったはずですが見つからなかったとの事。 「私が見つけてやる」と近所のお宅で伺ったり、あっちこっち行ったり来たりしましたが結局見つかりませんでした。
義仲寺から1.3㎞、滋賀県庁に到着しました。
「大津宿本陣まではもう少し!」と言った所です。

この辺りは既に大津宿の街並みに入った様で、古い商家と思われるお宅が何軒も見受けられました。


又、県庁入り口から400m、大津市京町2丁目3番地付近の交差点には「此附近露国皇太子遭難之地」と言う石柱が立っていました。
明治24年5月11日にロシア皇太子「ニコライ」が、警備中の巡査「津田三蔵」に斬りつけられて負傷した事件を示す石碑です。

県庁入り口から700m、県道558号線の広い道路に突き当たりました。
ここには「京阪京津線」が路面電車のように走っています。


県道558号線との交差点で左折、558号線を200m程歩き大津宿本陣跡に到着しました。
大津宿の本陣は「大阪屋嘉右衛門(大塚本陣)」と「肥前屋九左衛門」の2軒あり、ここは大塚本陣のあった所だそうです。 他に脇本陣は「播磨屋市右衛門」1軒だったとの事。
(写真をクリックすると拡大表示されます。)


今回は、久しぶりの東海道歩きで結構きつかったが、最後の宿場に無事到着しました。
で、JR大津駅で瀬田川に戻り宿泊、ゆっくりして帰宅しました。

大津駅近くの「まつや公園」には下の様な旧大津駅の写真が掲示されていました。
初代,初期型の縦目セドリックも写っています。 懐かしい!!!

東海道五十三次は後もうちょっとで完歩する!
なんとなく寂しいような・・・ もう終わりかァ~~~
東海道五十三次 草津宿から大津宿 その2(瀬田の唐橋 と 石山寺) [ 東海道五十三次]
前回の記事の様に、5月の暑い中東海道五十三次の 草津宿から大津宿迄を歩いてきました。
今回はその内の瀬田川や唐橋、チョット横道にそれて「石山寺」についてもレポートします。
今回の東海道五十三次では、出来る限り「琵琶湖迄来たァ~」を感じたく、瀬田川の中島(中州)にあるホテルに宿泊しました。
まず、瀬田川にかかる唐橋のたもとで、橋や橋からの景色をゆっくり見させて頂きました。
唐橋から上流,琵琶湖を望み、

川岸におり、橋のたもとからも見て、

唐橋を渡り、

ホテルにチェックインし、部屋から川を眺めていると学校のボート部と思われる人達がボートの練習をされていました。 一人乗り,二人乗り,4人乗りと色々あるんですね。 知ってはいましたが、実物を見るとやはりカッコいい! 楽しそう!

ほんとカッコいい!!! 一人乗りボート4艘で短距離競争! 楽しそう!
(写真をクリックすると拡大表示されます。)


瀬田川の川岸を散歩し、橋の下を通ってホテルに帰る途中、

下左写真の空色矢印の様なものを発見。 これは下右写真の琵琶湖 鳥居川水位観測所の観測器だそうです。 明治7年にオランダ人技師エッセルさんの指導で設置され、平成4年3月の「琵琶湖開発事業完成」まで活用されていました。 尚、今の琵琶湖の水位は片山,彦根,大溝,堅田,三保ヶ崎の5ヶ所で測定、その平均値を「琵琶湖平均水位」としています。
(しっかりした物や機械はキチンとメンテすると長持ちするんですね! 車のレストアも頑張ろう!)


で、夕食は東海道歩きの途中で見つけたうなぎ屋さんで食べました。 帰りの瀬田の唐橋からはこんな綺麗な風景も見る事が出来ました。 「♪ 宵闇せまれば ♪」ってこんな感じですかねフランク永井さん?

尚、ホテルの入り口には下の様なのぼり旗が多数立っており、ホテルの方が言うには「来年の大河ドラマは「紫式部」で、源氏物語を書いた「石山寺」迄は15分位」との事でした。
石山寺は今回の五十三次で行くか 行かないかで随分迷っていましたが、結局15分との事で行く事に。

で、翌朝ホテルを出、「中島」の西側に架かる小さい方の唐橋を渡り、すぐに左折して石山寺に向かいました。


橋を渡って直ぐの交差点を左(南)に曲がって、道なりまっすぐ歩く事25分、途中「京阪石山坂本線」の「石山寺駅」を横目に見て「15分と言われたがまだかいな!」 帰宅後調べたら、唐橋から石山寺迄は1.7㎞あり、15分は無理だよねェ~。
下左写真は石山寺駅。そして途中には下右の様なソフトタッチの掲示板も!心が和みました。
(写真をクリックすると拡大表示されます。)


石山寺の山門脇には下の様な説明板が立っていました。 で、山門をくぐり、もみじの新緑が綺麗な長い参道を進み、拝観料を支払い、本堂に続く右側の階段を上がります。



最初に訪れたのが「御影堂」でした。
ここは弘法大師と三代座主淳祐内供の像を安置されているお堂だそうです。
淳祐の座像は応永5年(1398年)に開眼供養されたとの事。

御影堂から振り返って「毘沙門堂」を参拝しました。
毘沙門堂は安永2年(1773年)に建てられ、「兜跋毘沙門天(重要文化財)」や「吉祥天」を祀るお堂です。

で、本堂にお参りです。
本堂の建立は古く、天平宝字5~6年(761~2年)に拡張されたが焼失し、現在の本堂は永長元年(1096年)に再建されたのだそうで、滋賀県では最も古い建物だそうです。


又、本堂の東側には「源氏の間」と言われる2間があり、ここは「紫式部」が参籠し「源氏物語」を起筆した場所と伝えられているとの事。
下写真がその様子を再現した所であり、紫式部の像は有職人形司十世伊藤久重作だそうです。


本堂から戻り、多宝塔の方に向かいます。
写真左の白い石(青矢印)は「硅灰石」で奥には「多宝塔」も見えます。
この石は、石灰岩が地中から突出した花崗岩と接触し、その熱作用の為に変質した石だそうです。 国の天然記念物となっており、石山寺と言う寺名はこの硅灰石からきているとの事。

多宝塔は源頼朝の寄進により建久5年(1194年)建立にされ、建立年代が明らかな多宝塔としては日本最古の国宝建築です。 又、本尊の「金剛界の大日如来像」や柱絵が重要文化財となっています。
大日如来像は、体内銘文と作風から鎌倉時代の仏師快慶の作と判明しているとの事。

この他、経蔵や月見亭,鐘楼等を見学し、最後に大黒天を参拝させて頂きました。
写真に写っておられるご夫婦も東海道歩きからの寄り道だそうです。 しかもお住まいは私の隣の市の方でした。
経蔵 鐘楼


大黒天

石山寺のホームページは右記;https://www.ishiyamadera.or.jp/
次回は「東海道五十三次 草津宿から大津宿 その3(瀬田の唐橋 から 大津宿)です。