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東海道五十三次 大津宿から京都三条大橋 その2(山科から三条大橋) [ 東海道五十三次]

  
 先日、3ヶ月ぶりに東海道五十三次を歩いてきました。
 そして今回は京都の三条大橋に到達しました。

 2009年12月15日 東京の日本橋を出発し、
   先日2024年3月11日 京都の三条大橋に到着しました。

 14年と3ケ月かかりましたが旧東海道五十三次を完歩しました。


 東海道五十三次を完歩する迄には本当に色々な事がありました。

 アメリカに赴任していた2002年頃に左顎の下に直径1cm位のしこりが出来、検査の結果悪性ではないとの事でした。 しかし、帰国後の 2008年初め頃から徐々に大きくなり、2009年5月にはゴルフボール大にまで成長し入院・切除しました。 切除した部分の検査結果は「顎下線がん」との事。 切除の為の入院や放射線治療で体力は減退、駅の階段も踊り場で休息し登る程になってしまいました。
 顎下線がんの闘病記は下記ブログのカテゴリーでレポートしていますが、最初の記事は https://hisashi1946.blog.ss-blog.jp/2009-05-31 で、この記事から見ると良いかも。 
  https://hisashi1946.blog.ss-blog.jp/archive/c2300593372-1

 そこで低下した体力の回復度合いを見る為にもと「東海道五十三次」を歩く事にし、2009年12月15日東京日本橋から出発。 当初順調だったが2011年2月に箱根の山を登った所で椎間板ヘルニアになり2年半も中断、更には2017年2月にも愛知県の池鯉鮒宿(知立宿)に到着後椎間板ヘルニアが再発約1年間中断しました。 

 更に新型コロナが広がり2020年2月滋賀県の水口宿に到着後2年9ヶ月中断中。 2022年9月に再開、そして今回2024年3月 78歳と1日目にやっと三条大橋に到着、完歩となりました。



 何はともあれ、今回の出発地である京都市の山科駅からの旅行記です。

 3月10日に家を出て京都御所を見学、翌11日9時頃ホテルを出てJR山科駅に9時20分頃に到着、歩き始めました。

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山科駅前から旧東海道を歩き350m、左側に「愛宕常夜燈」と言う表示のスリムな灯篭を発見。
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 更に進み駅前から500m、「五条分かれ道標」と言う近代的な金属の道標と、宝永4年(1707年)11月建立の古い道標を発見。 古い道標には「右ハ 三条通」とあり旧東海道の事。もう片面には「左ハ 五条橋 ひがしにし六条大佛 今ぐまきよ水 道」と書いてあり、ここから牛若丸の五条大橋に行く事が出来る様です。
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 更に道なりに駅前から900m進むと県道143号線との交差点に出た。 ここを右折し143号線に沿って進み、JRのガードをくぐり、ガードから約100m右側「天智天皇 山科陵」の入り口(下写真)に着いた。

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 この天智天皇 山科陵の向かい側に、下写真の様に「旧東海道」の道路標識が2か所に掲示されていた。 で、標識に沿って左折し細い路地に入って行きます。

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 路地は比較的狭い物の、143号線から分かれ500m位の所の水路迄はほぼ平坦な道が続き、その後急な坂となり「日岡峠」越えへと続きます。 下写真は143号線から300m位のまだ平坦な道の所です。

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 急坂の途中、143号線から700m位の所に「亀の水不動尊」がありました。
 以前は道路からでも本尊の所(黄矢印)を見る事が出来た様ですが、今は衝立が有り覗く事が出来ません。
 この亀の水不動尊を過ぎ少し上るとほぼ平坦な道になります。 また、143号線から分かれ旧街道に入ったあたりからはきちんと手入れをされ着飾ったお地蔵さんが多数ありました。

亀の水不動尊                 よく手入れされ着飾ったお地蔵さん
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 で、急坂を上りきり、143号線と別れてから1.2km位で再び143号線を眼下に見る事だ出来ました。 更には1.4kmで143号線と合流、その先には「日岡峠」の石碑やモニュメントのある広場に出ました。
下右写真の石碑(下左写真の空色矢印の所)にはモニュメントの出来た由来や地下鉄東西線開通時の状況等が説明されていました。(写真をクリックすると拡大表示されます)
尚、143号線を眼下に見えた所には旧東海道の道標「旧東海道道標 (日ノ岡の峠道)」があった様ですが見落としてしまいました。

日岡峠のモニュメント            モニュメントの出来た由来
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 143号線に合流してからはやや急な下り坂で、日岡峠のモニュメントから約300m「粟田口刑場跡」に到着しました。
下左写真は「九条山」交差点で、下右の写真は左写真矢印の所を見た写真です。 黄色矢印が粟田口刑場跡等の説明掲示板です。

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粟田口刑場跡の掲示板 ; この掲示板には大変多くの事が書かれています。 
 この地は「日岡峠」に次ぐ高い所で「粟田口峠」と言われていた。 文化年間に車道に車石が舗装され、幕府最後の慶応3年(1867)には急峻な日岡峠を避け新道が作られた結果粟田口峠が最高所となり明治以降はこの粟田口峠が日岡峠と言われる様になった。 その後明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)や現代にいたる開発、昭和6~8年の京津国道改良工事等で景観は一変したとの事。 また、ここは都と郊外との境で江戸時代には公開処刑場「粟田口(日岡)刑場」として磔(はりつけ)・獄門・火刑も行われ、山裾には供養塔も建てられていた。
等が書かれています。クリックすると拡大しますので時間のある方はじっくり読んでください。
  
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 九条山の交差点から約300mで京都市蹴上浄水場の坂の上の門に到着(下左写真の矢印の所)、更に坂を下ると浄水場の正門と思われる門と地下鉄の「蹴上駅」に到着(下右写真で空色矢印が地下鉄蹴上駅の入り口)。
蹴上浄水場は広くなんと坂上の門から地下鉄入り口の所の門迄450m(グーグルによる)。

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 で、私は地下鉄の「蹴上駅」の地下道を通って「ねじりまんぽ」の蹴上トンネルをくぐって、南禅寺に向かう事に。

ねじりまんぽ(蹴上トンネル)
 台車に乗った船が行きかう蹴上インクラインの重さに耐える様内壁のレンガが斜めに(空色矢印)敷かれています。 「まんぽ」はトンネルを意味する古い言葉だそうです。
蹴上インクラインの解説は下記を参照願います。
  https://biwakososui.city.kyoto.lg.jp/place/detail/23

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 旧東海道から分かれ、ねじりまんぽをくぐって350m南禅寺の参道に到着。 本来「旧東海道歩き」なので忠実に街道を歩くべきですが、私はこの掟を破り南禅寺に向かいます。 掟を破ってまでも南禅寺に向かう目的は境内にある「琵琶湖疏水」の水道橋を見る為で、今回京都に来た最大の目的は「三条大橋に到着し東海道五十三次を完歩する事」ですが、「南禅寺の水道橋を見る事」はそれと同じ位大事な目的でした。

南禅寺の大きな三門             法堂も大きかった
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そして目的の「琵琶湖疏水の水道橋」
 琵琶湖から京都市内に向けて引かれた水路で、滋賀県大津市で取水され南禅寺横を通って京都市東山区蹴上迄の区間。 疏水の工事は1885年に始まり1889年に完成しました。
琵琶湖での取水場の様子は下記のブログで掲載しています。
   https://hisashi1946.blog.ss-blog.jp/2023-12-31

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南禅寺を出て、「南禅寺前」交差点から見た蹴上インクライン(鉄道)
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 南禅寺の水道橋を見学し、南禅寺の参道から料理屋さん「瓢亭」の前を直角に曲がり東海道(三条通り)に復帰しました。 
東海道歩きは、地下鉄蹴上駅から三条大橋に向かって約300mスキップしたことになります。
  お天道様許して!!!
で、旧東海道に復帰三条通りを三条大橋に向かって進みます。 この通りには古い建物と近代的にデザインされた建物が混在しており、以前何処かのテレビ局で特集されていました。

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 東海道(三条通り)に復帰し1.3km(地下鉄蹴上駅から三条通で1.6kmに相当)三条大橋の交差点に到着です。
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下の浮世絵は歌川広重の京都(三条大橋)です。
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で、記念撮影!
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そして橋の下をのぞき見。
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更に三条大橋を渡り「弥次さん喜多さん」にご挨拶し、記念写真を撮らせて頂きました。
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 で、橋全体をゆっくり見学
(普通この様な歴史のある所は"いかにも歴史ある所"を感じさせ様とするデザインが多いのですが、予想以上にあっさりした洒落たデザインでした。)
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 そして、鴨川も上流側(下写真左)と下流側(下写真右)を見て、
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 橋の袂のコーヒー店でゆっくり橋を眺めながらコーヒーとおやつ的な軽食を取り、今回は非常に疲れたので(だよね~ almost 80 years oldだもん)ので 早めにホテルに戻り昼寝休息でした。
コーヒー店からの三条大橋
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 終わってしまった。 私の東海道五十三次!!!


で、今回の反省は、もう少し準備運動をして体力をつけて行くべきだった!
 そして、京都市内の琵琶湖疏水はもっと充分な予習が必要だった!
 (友人との飲み会で「疏水の上に登り水の流れを見る事が出来る」との事。知らなかった!)
 多分南禅寺周辺の琵琶湖疏水と関連施設はもう一度見学する事になるかも!
 その時は「150円の自炊湯豆腐で充分」ではなく南禅寺門前のお高い湯豆腐も食べようか!

 次回「東海道五十三次のハイライト編」を書けるかなァ~~~???


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東海道五十三次 大津宿から京都三条大橋 その1(大津から山科) [ 東海道五十三次]

   
 先日、久しぶりに東海道五十三次を歩いてきました。
 今回は「大津宿大塚本陣跡」から京都市山科迄と短距離として、むしろ「琵琶湖疏水」等琵琶湖周辺の観光が主となってしまいました。 で、観光部分は別途レポートするとして、今回は大津宿から山科迄をレポートします。

 12月3日朝、新幹線で米原迄行き東海道本線に乗り換え彦根で「彦根城」を見学、そして再度東海道本線に乗り大津駅に着いたのは午後2時頃。 前回(2023.5.25)の終点大津宿大塚本陣跡迄行き、東海道歩きを始めました。

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 大塚本陣から350mでJR線の蝉丸跨線橋 (上関寺トンネル)に出ました。

 この辺の東海道線は複々線になおり、南側の2線はレンガ造り、北側の2線はコンクリート造り。 「蝉丸跨線橋」(表示プレートには「上関寺」とあった)と言われ、レンガ造りの方は大正10年に竣工したそうです。 
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下写真の様に大正10年のトンネルが今でも現役です。
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 JRのトンネルから400m程歩くと街道から京阪線を挟んで「関蝉丸神社下社」がありました。
「琵琶の名手蝉丸をまつる神社で、この神社は下社にあたる。 平家物語、謡曲「蝉丸」などにも、その名が見え古くから歌舞音曲の神として知られる」との事。

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 大塚本陣跡から約600m、京阪電車の踏切を超え「安養寺」前に出ます。 ここには下写真の様に「逢坂(おうさか)」の説明石柱(空色矢印)等が立っていました。 石柱には下記のような説明が。
 「「日本書紀」によれば、神功(しんぐう)皇后の将軍・武内宿禰(たけのうち すくね)がこの地で忍熊王(おしくまおう)とぱったりと出会ったことに由来すると伝えられています。この地は、京都と近江を結ぶ交通の要衝で、平安時代には逢坂関が設けられ、関を守る関蝉丸神社や関寺も建立され和歌などに詠まれる名所として知られました。」

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 更に進み「安養寺」から約100m、街道の右側に「旧逢坂山隧道東口跡地」があります。
 この隧道は、日本人技術者のみで完成した日本最初のトンネルで、1878(明治11)年10月に起工、1880(明治13)年6月28日竣工。
 東海道本線大津~京都間の旧線のトンネルで、馬場駅(現在の膳所駅(ぜぜ駅))~大谷駅(大正10年8月1日廃止)の間のトンネルとして使われていましたが、大正10(1921)年8月1日に東海道本線の短絡新線(現在の東海道本線)が出来た事で使用廃止となりました。 (上記蝉丸跨線橋 の所のトンネルが使われる様になり下写真のトンネルは廃止となった。)

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「安養寺」から450mで高速道路の下に、国道1号線は東京日本橋から486kmとの表示でした。
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高速道路下から約100mで「関蝉丸神社上社」に到着。 下社からは約800mだった。
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更に高速道路下からで200m程歩くと「弘法大師堂」がありました。
紅葉は終盤でしたが趣のある風情でした。
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 弘法大師堂を過ぎると街道は大きく曲がり、登り坂も急になり、しかも人家はほとんどなく、日陰の寒さや彦根城観光の疲れとも重なり、なんとなく寂しい様な気分になりかけたが、「もうすぐ京都! もうすぐ京都!」と奮い立たせて坂を上り切りました。

下写真は坂の途中から大津方面に振り返って撮影。
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 弘法大師堂から約270m、「東海自然歩道 逢坂山歩道橋」を通過するとすぐ右側に「逢坂の関」がありました。 今回の東海道歩きではこの「逢坂の関の石碑」を見る事が1つの目標でしたので目標を1つ達成。 しかもこの関跡が峠の頂上の様でこれからは下りだけと思うと気が楽になりました。

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 この逢坂の関跡には上写真の様に石碑と逢坂常夜燈があり、その隣には下写真の様に休息所があり、逢坂の関の説明やこの付近の歴史的な事柄を書いた掲示板がありました。

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 掲示板の中には「逢坂の関」も下写真の様に説明されており、他には逢坂越えの「車石(後に詳細説明あり)」、日本国内算盤発祥の地「大津算盤(1612年に中国からの算盤を改良した物)」、17世紀前期から旅行者の土産用としての販売された「大津絵」等が記されていました。

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関跡を過ぎたと所で国道1号と分かれ、右側のうなぎ屋さんが並ぶ通りに入って行きます。
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 うなぎ屋さんの通りを300m程歩くと再び国道1号に出ます。 そこで歩道橋を渡り更に400m程歩くと「月心寺」に出ますが、その手前のお宅の前に「車石と車輪が置かれ、大津算盤に関する石柱」も立っていました。
車石とについては上記の関跡の休息所の掲示板に下記の様に細かく説明されていました。

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 写真をクリックすると拡大表示され、石柱には「算盤の始祖片岡庄兵衛」さんに関する説明が書かれており、その文書も読めます。
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 月心寺の西角には「右一里丁 左大谷町」と読むだろう石碑があり、この石碑から京都寄り付近が「一里町」と呼ばれ「大谷の一里塚」があったと思われるが塚は見つからなかった。

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 月心寺から800m程歩くと国道1号線は右にカーブし高速道路の下をくぐり、旧東海道は1号線と別れ大津警察署藤尾交番の左側に入っていきます。 で、月心寺から1.2㎞で「髭茶屋追分」に出ました。 中央の石柱には「みきハ京ミち」と書かれていて、もう一つには「蓮如上人御塚」と書かれており、最近補修した様です。
 で、下右の写真は東海道を歩いておられた先人「東海道のんびり旅」のレポートの写真をお借りしましたが、この方の2006年12月23日の時点の写真では道路に半分埋まっていた様です。
勿論私は江戸時代の道しるべに従って交差点の右側の道を進みます。

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 髭茶屋追分の交差点から約100m、「閑栖寺」にも車石の展示と説明がありました。 ここの境内には車石の模様が再現されている様ですが門が締まっており、先に進む事に。

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 さらに進み、髭茶屋追分から450mの所に国道1号線を横切る歩道橋がありましたが、なんと歩道橋は使用禁止! 一瞬パニックになりましたが、掲示板を見て1号線の歩道を大津方面に戻り、地下道をくぐり何とか街道筋にでました。

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歩道橋から約100m戻った所の地下道入り口  地下道を出て旧東海道に戻って
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 髭茶屋追分から約700mの所に「三井寺観音道」と記された石柱がありました。
 この道標が「小関越道標」であり、ここを右折し道標通りに北の方に入り、小関越えをして大津市小関町3丁目にある「小関越道標」に出て道標の交差点を左折し三井寺の観音堂に行く事が出きます。 この小関道を歩いてみたい様な誘惑がヒシヒシと! でも今は無理 我慢我慢。
 所でこの「小関」とは、古代に関所があった逢坂の関を大関として、この三井寺観音堂道は裏道にあたり小関と呼ばれていた様です。

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 実は「大津警察署藤尾交番」を過ぎたあたりから「マダカ マダカ」とず~~~ッと探し求めていた標識がやっと見つかりました。 それが下写真に写っています。

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 そう! 「京都市」の道路標識です。 
 やりました。日本橋を2009年12月15日に出発して実に14年かけてやっと京都に到着しました。
 多くの街道歩きをされておられる方からすると「遅い」の一言でしょうが、色々あってやっとここまで来ました。 だが感賞するのはまだ早い!

 気を取り直して歩くと京都市の標識から450m、立派なお寺風の建物があり、思わずカメラをパチリ! (何時もの私でしたら見学するのですがパチリのみ。 実は午前中は彦根城を見学させて頂き、大津に移動、逢坂を上がって来た疲れで(26000歩を越えていた)ヘトヘト,足はパンパンだったのです。)
このお寺さんは徳倫庵(山科地蔵)と言われ、本尊に地蔵菩薩様を祀る臨済宗南禅寺派の寺院です。

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 で、お地蔵様を通りお地蔵さまから歩く事400m、京阪電車の「京阪山科駅」・「JR山科駅」前の交差点に到着。
本日の目標達成,今回の東海道歩きは終了。


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次回の東海道歩きで「完歩」となります。      寂しくなるかもなア~~~???


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東海道五十三次 草津宿から大津宿 その3(瀬田の唐橋 から 大津宿) [ 東海道五十三次]

  
 前々回の記事の様に、5月の暑い中東海道五十三次の 草津宿から大津宿迄を歩いてきました。 今回はその内の瀬田川の唐橋から大津宿迄についてレポートします。

 今回の東海道五十三次では、出来る限り「琵琶湖迄来たァ~」を感じたく、瀬田川の中島(中州)にあるホテルに宿泊し、「紫式部」が参籠した石山寺にもお参りしました。
 その後、時間の節約・体力保持の為「京阪石山坂本線」で一駅「唐橋前駅」迄乗車、旧東海道に戻り五十三次歩き再開です。
(厳密には「唐橋西詰」交差点から「唐橋前駅」迄の170mを省略した事になります。)


 下写真は旧東海道の「唐橋前駅」脇から唐橋方向を見た所で、青矢印先が唐橋で、ほぼこの写真の範囲を省略しました。 目で歩いた事にします!!!

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 唐橋前駅から約100m程歩き、「鳥居川 交差点」を右折し、まっすぐ450m程進み「京阪石山坂本線」の踏切を渡り、更に100mで左折すると「JR石山駅」に到着します。
 五十三次を歩いた先人の説明によると、東海道の旧道はこのJR駅を横切るのがより旧東海道に即しているとの事で、私も先人にならってJRの橋上駅構内を横切りました。

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 で、駅を横切り北側駅前に出ると大掛かりな工事が行われていました。 上記先人が歩いた頃は大きな工場だった様ですが、工事の説明板には確か「商業施設と高層住宅として開発」と書いてあったような? こんな感じで、時代が変わっていくのでしょうね???!!!

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 JR石山駅から大きな工場脇等を右カーブ左カーブしなから1.3㎞ 「若宮八幡宮」に着きました。  琵琶湖沿いにあった「膳所城(ぜぜじょう)」が明治3年に廃城となり、本丸の犬走門をここ若宮八幡宮に移築されたと伝えられています。
                    (写真をクリックすると拡大表示されます。)
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 又、JR石山駅から1.7㎞の所には「篠津神社」がありました。 ここも膳所城解体後の明治5年に膳所城北の大手門を移築再建されたとの事。
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 所でこのあたりの旧東海道沿いには下右2つの様な案内板が、民家の軒先や下左写真の青矢印の様に名所旧跡の前に掲示されていました。 この掲示板は「膳所高校、書道部」の部員達が一枚一枚書かれた様です。 書体も各自の個性で一枚一枚異なっていました。

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 又、この付近の街道沿いにも古いお宅が点在していました。

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 で、篠津神社を出て70m位で左折し、更に100m位の所に篠津神社の裏門の様な出入口があり、再度篠崎神社に入り、お参りして非常食にと購入しておいたおにぎり等を昼食代わりに食べました。
(ここ草津から大津ではズーッと街中を歩いていますので非常食は必要ないと思いますが、以前の東海道歩きでは田園地帯や山間部で昼食時間になったものの食堂等もなく困った事があり、必ず少しの食べ物を持ち歩く事にしています。)


 篠津神社から250m位「音羽軒」と言う表示のあるお宅の所を再度直角に右折します。

 篠津神社の入り口から650m、「膳所城跡公園前」と言う表示のある交差点から「膳所城跡公園」に行き琵琶湖を見てみようと思っていた所、「あらッ 先ほどは どうも!」と声がかかりました。 振り返ってみると、「石山寺」を参拝しておられた御夫婦でした。
 少し立ち話をした所、神奈川県の私の隣の市の方で、頑張って今日、三条大橋迄歩き東海道完歩の予定との事。 又、昨日の夕食も同じ「ウナギ屋」さんでだったことも判明し、何故かチョット楽しくなってしまいました!



 私は膳所城跡公園前で右に曲がって 200m、膳所城の城門に到着。 早速琵琶湖のほとりを散策。 全長1,290mの「近江大橋」も見る事が出来ました。

 膳所城は、慶長5年(1600年)関ヶ原で勝利し天下人となった徳川家康は、翌年(1601年)東海道の押さえとして、大津城を廃し膳所崎に城を築かせた。 膳所城は江戸城、大坂城、名古屋城など天下普請として江戸幕府が諸大名に号令し築いた城の第一号で、藤堂高虎に計画させた。
 湖の中に石垣を築き、本丸西隅に4重4階の天守が築かれた。 家康がこの地を選んだ理由として、昔より「瀬田の唐橋を征するものは天下を征する」と言われた瀬田の唐橋に近い場所であったからであると言われる。 築城された年に大津城主戸田一西を3万石で入城させここに膳所藩が成立した。以後、譜代大名の居城となった。

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 公園から「近江大橋西詰」と言う近江大橋の西の袂から西に向かって路地に入り約200mで旧東海道に復帰です。 で、また、東海道歩きは約300mカットしてしまいました。 チョット疲れもあり、まァいいや!との思い。


 旧東海道に復帰し、住宅街を歩く事1.4㎞、街道左側の「義仲寺」付きました。
 義仲寺は、木曽義仲が平家討伐の兵を挙げて都に入り、帰路源頼朝軍に追われ1184年粟津(あわづ)の地で壮烈な最期を遂げ、ここに葬った事に由来。 近江守護であった佐々木六角が、室町時代末期に建てたと言われています。 江戸時代中期には小さな塚だったそうです。
                   (写真をクリックすると拡大して見られます。)
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木曽義仲公のお墓
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巴塚
 木曽義仲の愛妻巴は義仲と共に討死の覚悟で粟津に来たが、義仲の言葉に最後の戦を行い敵将恩田八郎を討ち取り落ち延びた。 その後鎌倉幕府に捕えられ、和田義盛の妻となり義盛戦死後は尼僧となり各地を廻り当地に暫く止まり、亡き義仲の菩提を弔っていたという。 更に何処となく立ち去り、信州木曽で九十歳の生涯を閉じたと云う。
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 義仲寺から600mで「平野神社」の入り口に着きます。
 蹴鞠の神社と言われており、藤原鎌足公の創建と伝えられる神社で、随分前の事ですがNHKの「街道てくてく旅」でサッカーの岩本輝雄さんが蹴鞠をしていた神社を見たく寄ってみた。
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 街道歩きの先人のレポートではこの付近に一里塚があったはずですが見つからなかったとの事。  「私が見つけてやる」と近所のお宅で伺ったり、あっちこっち行ったり来たりしましたが結局見つかりませんでした。

義仲寺から1.3㎞、滋賀県庁に到着しました。
 
「大津宿本陣まではもう少し!」と言った所です。

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 この辺りは既に大津宿の街並みに入った様で、古い商家と思われるお宅が何軒も見受けられました。
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 又、県庁入り口から400m、大津市京町2丁目3番地付近の交差点には「此附近露国皇太子遭難之地」と言う石柱が立っていました。
 明治24年5月11日にロシア皇太子「ニコライ」が、警備中の巡査「津田三蔵」に斬りつけられて負傷した事件を示す石碑です。
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 県庁入り口から700m、県道558号線の広い道路に突き当たりました。
ここには「京阪京津線」が路面電車のように走っています。
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 県道558号線との交差点で左折、558号線を200m程歩き大津宿本陣跡に到着しました。
大津宿の本陣は「大阪屋嘉右衛門(大塚本陣)」と「肥前屋九左衛門」の2軒あり、ここは大塚本陣のあった所だそうです。 他に脇本陣は「播磨屋市右衛門」1軒だったとの事。
                    (写真をクリックすると拡大表示されます。)
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 今回は、久しぶりの東海道歩きで結構きつかったが、最後の宿場に無事到着しました。
で、JR大津駅で瀬田川に戻り宿泊、ゆっくりして帰宅しました。

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 大津駅近くの「まつや公園」には下の様な旧大津駅の写真が掲示されていました。
初代,初期型の縦目セドリックも写っています。 懐かしい!!!

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 東海道五十三次は後もうちょっとで完歩する!

 なんとなく寂しいような・・・ もう終わりかァ~~~ 



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東海道五十三次 草津宿から大津宿 その2(瀬田の唐橋 と 石山寺) [ 東海道五十三次]

  
 前回の記事の様に、5月の暑い中東海道五十三次の 草津宿から大津宿迄を歩いてきました。
今回はその内の瀬田川や唐橋、チョット横道にそれて「石山寺」についてもレポートします。

 今回の東海道五十三次では、出来る限り「琵琶湖迄来たァ~」を感じたく、瀬田川の中島(中州)にあるホテルに宿泊しました。


 まず、瀬田川にかかる唐橋のたもとで、橋や橋からの景色をゆっくり見させて頂きました。

唐橋から上流,琵琶湖を望み、
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川岸におり、橋のたもとからも見て、
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唐橋を渡り、
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 ホテルにチェックインし、部屋から川を眺めていると学校のボート部と思われる人達がボートの練習をされていました。 一人乗り,二人乗り,4人乗りと色々あるんですね。 知ってはいましたが、実物を見るとやはりカッコいい! 楽しそう!

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ほんとカッコいい!!!         一人乗りボート4艘で短距離競争! 楽しそう!
                     (写真をクリックすると拡大表示されます。)
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瀬田川の川岸を散歩し、橋の下を通ってホテルに帰る途中、
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 下左写真の空色矢印の様なものを発見。 これは下右写真の琵琶湖 鳥居川水位観測所の観測器だそうです。 明治7年にオランダ人技師エッセルさんの指導で設置され、平成4年3月の「琵琶湖開発事業完成」まで活用されていました。 尚、今の琵琶湖の水位は片山,彦根,大溝,堅田,三保ヶ崎の5ヶ所で測定、その平均値を「琵琶湖平均水位」としています。
(しっかりした物や機械はキチンとメンテすると長持ちするんですね! 車のレストアも頑張ろう!)

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 で、夕食は東海道歩きの途中で見つけたうなぎ屋さんで食べました。 帰りの瀬田の唐橋からはこんな綺麗な風景も見る事が出来ました。 「♪ 宵闇せまれば ♪」ってこんな感じですかねフランク永井さん?

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 尚、ホテルの入り口には下の様なのぼり旗が多数立っており、ホテルの方が言うには「来年の大河ドラマは「紫式部」で、源氏物語を書いた「石山寺」迄は15分位」との事でした。
 石山寺は今回の五十三次で行くか 行かないかで随分迷っていましたが、結局15分との事で行く事に。

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 で、翌朝ホテルを出、「中島」の西側に架かる小さい方の唐橋を渡り、すぐに左折して石山寺に向かいました。

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 橋を渡って直ぐの交差点を左(南)に曲がって、道なりまっすぐ歩く事25分、途中「京阪石山坂本線」の「石山寺駅」を横目に見て「15分と言われたがまだかいな!」 帰宅後調べたら、唐橋から石山寺迄は1.7㎞あり、15分は無理だよねェ~。

下左写真は石山寺駅。そして途中には下右の様なソフトタッチの掲示板も!心が和みました。
                     (写真をクリックすると拡大表示されます。)
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 石山寺の山門脇には下の様な説明板が立っていました。 で、山門をくぐり、もみじの新緑が綺麗な長い参道を進み、拝観料を支払い、本堂に続く右側の階段を上がります。
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 最初に訪れたのが「御影堂」でした。
ここは弘法大師と三代座主淳祐内供の像を安置されているお堂だそうです。
淳祐の座像は応永5年(1398年)に開眼供養されたとの事。
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 御影堂から振り返って「毘沙門堂」を参拝しました。
毘沙門堂は安永2年(1773年)に建てられ、「兜跋毘沙門天(重要文化財)」や「吉祥天」を祀るお堂です。
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 で、本堂にお参りです。
 本堂の建立は古く、天平宝字5~6年(761~2年)に拡張されたが焼失し、現在の本堂は永長元年(1096年)に再建されたのだそうで、滋賀県では最も古い建物だそうです。

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 又、本堂の東側には「源氏の間」と言われる2間があり、ここは「紫式部」が参籠し「源氏物語」を起筆した場所と伝えられているとの事。
下写真がその様子を再現した所であり、紫式部の像は有職人形司十世伊藤久重作だそうです。

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 本堂から戻り、多宝塔の方に向かいます。
 写真左の白い石(青矢印)は「硅灰石」で奥には「多宝塔」も見えます。
この石は、石灰岩が地中から突出した花崗岩と接触し、その熱作用の為に変質した石だそうです。 国の天然記念物となっており、石山寺と言う寺名はこの硅灰石からきているとの事。

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 多宝塔は源頼朝の寄進により建久5年(1194年)建立にされ、建立年代が明らかな多宝塔としては日本最古の国宝建築です。 又、本尊の「金剛界の大日如来像」や柱絵が重要文化財となっています。
大日如来像は、体内銘文と作風から鎌倉時代の仏師快慶の作と判明しているとの事。

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 この他、経蔵や月見亭,鐘楼等を見学し、最後に大黒天を参拝させて頂きました。
 写真に写っておられるご夫婦も東海道歩きからの寄り道だそうです。 しかもお住まいは私の隣の市の方でした。

経蔵                      鐘楼
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大黒天
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 石山寺のホームページは右記;https://www.ishiyamadera.or.jp/


 次回は「東海道五十三次 草津宿から大津宿 その3(瀬田の唐橋 から 大津宿)です。

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東海道五十三次 草津宿から大津宿 その1(草津宿~瀬田の唐橋) [ 東海道五十三次]

 
 5月の暑い中、東海道五十三次の内 草津宿から瀬田川の唐橋を経由して大津宿迄歩いてきました。 途中、紫式部の源氏物語に関するのぼり旗が多数立っており、源氏物語を書いた場所のある石山寺にも寄り道して来ました。

 寄り道が多い私は、掲載写真も多く多分3回に分けてのレポートになると思います。
(又、車のレストアや野良仕事等もありブログを書く事が遅れ遅れになってしまっています。 「タイミング外れ」と思われる方も多いと思いますが、ご容赦下さい。)


 前回草津宿に到着したのが2022年9月26日月曜日で、草津の本陣は閉館日で内部を見学する事が出来ませんでした。 で、今回は草津宿本陣が開館日の水曜日(2023年5月24日)を選んで出発しました。 実は久しぶりの新幹線でワクワク気分でもありました。
前回の東海道歩きの記事は下記です。
 https://hisashi1946.blog.ss-blog.jp/2022-10-14
 https://hisashi1946.blog.ss-blog.jp/2022-10-17


小田原から新幹線で米原迄行き、米原から東海道線で草津駅に到着です。 
下写真は草津駅前の橋上歩道です。
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 駅から南に200m程歩き、右折し商店街の様な道を西に向かって歩き始めました。
この道が既に旧中山道でもあります。 立派な中山道の掲示板もありました。
                    (写真をクリックすると拡大写真になります。)                   
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 で、中山道を400m程歩き、前回歩いた東海道と中山道の合流地点に戻ってきました。
下写真は前回の物で京都側から東海道(緑矢印)と中山道(青矢印)の合流地点を見た所です。

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 この合流点の上は元草津川の跡地で、「de 愛ひろば (Deai Hiroba)」があり、階段を上がって行って見てみました。 下写真の様に予想をはるかに上回る広さでした。
しかも「街道を歩く私の頭の上に川の跡地ある」この不思議な感覚伝わるかなァ~~~

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 東海道と中山道合流点から80m程歩きで草津本陣に到着です。
江戸末期の草津宿には本陣が2軒、脇本陣が2軒、旅籠が72軒あったそうで、当時の宿場としては大きい方で大変賑わっていたとの事。
又、旧東海道で江戸時代の本陣が残っているのは二川宿とこの草津宿の2軒のみです。
二川宿の記事は右記 https://hisashi1946.blog.ss-blog.jp/2016-05-31

 草津宿の「田中七左衛門家」は寛永12年(1635年)から明治 3年(1870年)迄の約235年間本陣職を務めました。 田中七左衛門家本陣は 大名・幕府役人・勅使などの休憩宿泊施設として機能して来ており、今も江戸時代の姿を残している 貴重な国指定史跡でもあります。


 前回の草津宿はしっかりと門を閉ざしていましたが、
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今回は門が開いていて、既に先客もおられました。
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 早速内部を見学です。
写真は細かな資料の撮影は禁止で、部屋の雰囲気等だけにして欲しいとの事!
                      下右写真は正面玄関です。
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下左写真は正面玄関から鉤の手に曲がった所の廊下で、両側に幾つもの部屋の入り口が見える。
下右は廊下の奥の方にあった「上段の間」で、お殿様等身分の高い方が泊られるお部屋です。
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下左写真は、廊下から右手に入った所の「かまどが5つもある大きな台所」です。
台所からは中庭や蔵のある場所に出ます。「田中七左衛門家」は材木商でもあった。
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 本陣を一通り見学した後、8ヶ月ぶりの東海道歩き! やっと再開です!
 150m程歩くと「エフエム 草津」前に出ました。 で、チョット寄った所、休息所の様な部屋の壁に下右の様な写真が掛けられていました。

 下右写真の青い花は「青花 (アオバナ)」と言い草津市の市の花で、江戸時代から栽培されていました。 今は化学染料等に押され存続が難しい物の再興を目指す活動もある様です。 
(このアオバナは「つゆ草」の栽培用変種でつゆ草よりも大型で「オオボウシバナ」と言われる物です。 この花弁は京友禅の下絵を描く染料になる青花紙(あおばながみ)の原料として用いられ、草津市を中心にしたこの地域で栽培されています。)
                     (写真をクリックすると拡大写真になります。)
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 街道に戻り200m程歩くと「道灌蔵」と言うのれんのかかった「太田酒造株式会社」さんに着きました。 道灌さんには近親間もあり、中に入り伺った所「太田家は道灌から5代目の時に草津に移り住み「問屋場の役人」も務めていた様で、酒作りは明治初期に始めた」との事。
太田酒造さんのホームページ ; https://www.ohta-shuzou.co.jp/

(私の田舎に「矢の橋;(戦の弓矢で橋が架かった程の意)」と言う地名があり、その近くの城が太田道灌初の城との噂がたった事があった。 そんなことから道灌さんには近親感があると共に、「道灌初のお城」の真偽を知りたいが、今もって手がかりすら見つかっていない。)

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その後「立木神社」の前を通り、黒門跡でその由来を確認、そして現在の「草津川」の矢倉橋を渡りました。

黒門の跡の説明板               (写真をクリックすると拡大します。)
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現在の矢倉橋と橋から見た現在の草津川です。
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 草津宿本陣から1.2km、寄り道の多い私は45分かかって「瓢泉堂」さんに着きました。
 ここが広重の草津宿の絵の場所「矢倉立場」跡だそうで、広重の絵にあるお店は「乳母が餅」を売るお店だそうです。(この店は今はオーナーさんが変わり国道1号線の方に移転、今も乳母が餅を販売しているとの事。)
 又、浮世絵と同じ様に店に向かって右側に「やばせ道道標」の石柱(下写真空色矢印)も立っていました。 店の右側の道「やばせ道(青矢印)」を行くと「矢橋の港」から琵琶湖を渡り、大津宿に行きます。 店の前の道をまっすぐに行くと琵琶湖の南端を回り「瀬田の唐橋」を通って大津宿に向かいます。

 矢橋の港からの舟旅は距離も短く短時間で行く事が出来るが、比叡山からの吹きおろしの風で欠航も多く、「 やばせの舟は 早くとも 急がば回れ 瀬田の長橋」と詠われた様です。 ここから、ことわざの「急がば回れ」が生まれました。

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 やばせ道の道標(瓢泉堂)から650m「野路の一里塚」に到着しました。
(野路は平安朝から鎌倉時代にかけては東海道の宿駅として栄えた場所との事。) 
 ここは「上北池公園」と言う公園で、作業員服を着た方々が東屋で食事をしていました。 私が一里塚の写真を撮っていると若い女性の作業服を着た方が「撮りましょうか」と言われ「お願いします」と言ってしまいました。 (東海道歩きで初の小さな顔出し記念写真です。)

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 野路の一里塚から約900mの所の「野路 萩の玉川跡」の前を通って、一里塚から1.3㎞の弁天池に出ました。 島の中の弁天神社にお参りし、小田原駅で非常用にと買っておいたおにぎりと菓子パンを昼食代わりにと食べました。

 昼食時ゆっくり休めたので体力は回復、歩きを再開。 野路の一里塚から2.7㎞程歩いた所で月輪池に出ました。 ここの池は昔は月が湖面に映り綺麗だったようですが、今は水もほぼ枯れてしまっています。 立場跡を示す石柱だけがメンテされていてなんとなく違和感が!

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 現在のグーグルの地図では野路の一里塚から3.4㎞、一里(4㎞)に満たないが「月輪一里塚跡」に着きました。
 昔はこの位の誤差があったのだろうか? それとも時代と共に道路や一里塚跡の位置が移されてしまったのだろうか? それにしても600mの誤差大きくない???

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 月輪一里塚から900m 大江4丁目の所で直角に左折し、更に歩き一里塚から1.3㎞の大江6丁目で直角に右折、道なりに600m(一里塚から1.9㎞)歩くと広い道に出でました。 左折してこの広い道を歩くとすぐに高橋川を渡る赤い橋がありました。

 地図を見るとこの赤い橋から川沿い(北西方向)に進むと約600mで瀬田川です。 「琵琶湖迄もう少し,京都も直ぐそこ」を実感!!!


 で、私は広い道を南西方向にまっすぐ500m程歩き、石屋さんの所で左側路地に入り100m位県道16号線に出ます。ここを右折し一直線 300m、 瀬田川の橋 「瀬田の唐橋」です。

 つい15分前に高橋川の橋から 600mで琵琶湖と感動していましたが、たった15分歩いただけで瀬田川に付いた! 私にとっては「やった~! ヤッター! ヤッターマン」です。

橋は直ぐそこ!!!
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琵琶湖からの川、瀬田川の唐橋です。
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こんな大きな橋です。 「急がば回ってきた橋」です。
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次回は瀬田川・瀬田の唐橋、そして来年の大河ドラマに関する石山寺です。


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東海道五十三次,滋賀県の石部宿から草津宿 その2 [ 東海道五十三次]

  
 コロナ過で、2020年2月から約2年半強中断していた「東海道五十三次歩き」がやっと再開出来ました。  

 2022年9月25日にJR三雲駅から石部宿迄を歩き、翌26日には石部宿から草津宿迄を歩きました。  石部宿から草津宿迄の前半部分にあたる"目川の「田楽発祥の地」"迄を10月14日にレポートしましたが、今回は"目川の「田楽発祥の地」"を過ぎた所からレポートします。


 目川の「田楽発祥の地」から300mで道なりに右に曲がり、更に進み田楽発祥の地から550mで新幹線のガードをくぐり、1.0kmの所の小さな「大路3丁目地蔵尊」の前を通り、その直ぐ先の左側の土手の様な所を上がって(下左写真の黄矢印)進み、更に国道一号線をまたぐ歩行者専用と思われる「草津宿橋」(下右写真)を渡ります。

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 「草津宿橋」を渡ると草津川跡地公園に出て更に進むと公園の有料駐車場に突当ります。 そこを左に曲がり「草津高野地蔵尊」の前を通り道なりに右に曲がって進みました。

(この辺で事前に準備していた地図に対して、違う道を歩いている様な気分になってしまい 「今私は何処を歩いているのだろう???」等と言ってみれば「迷子状態!!!」
 今振り返ると、迷子になった原因は多分「草津宿江戸見付 横町道標」を見つけられなかった事と公園内が工事中で仮設の様な歩道と標識だった事による物と思われます。)


 で、地蔵尊の前を通ってすぐに道なりに大きく右に曲がり、通行人の方やお店の方に「ここは旧東海道ですよね!」と何度も訪ね歩いて約10分強、いつの間にか右手にトンネルのあるT字路風交差点(下左写真)に出ました。 キョロキョロ周りを見渡して見ると黄色矢印の木製道標(下右写真)を発見。
 やっと状況が読み込め「東海道と中山道の合流点」に出た事を理解しました。
黄色矢印の右脇の建物は高札場でした。

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 東海道と中山道が合流する交差点の手前右角には石碑や常夜燈もありました。
 下右写真は京都側から中山道との合流点を振り返った所で、黄色矢印が下左写真の常夜燈等の所です。 で、下右写真の濃い茶色の建物の手前が脇本陣「大黒屋」さんですが写真には写っていませんでした。

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 東海道と中山道の合流する交差点で左に曲がり、京都方向に向い、約50m進むと江戸時代後期の建物の「草津宿本陣」に到着です。
 「草津宿本陣」は愛知県豊橋市の「二川宿本陣」と共に江戸時代の現存建物で、東海道ではたった2つのみです。 (徳川幕府によって定められた「伝馬・宿駅制度」が明治5年に廃止され多くの本陣等が解体・廃棄された。) 
是非本陣内部を見たいと思っていましたが、残念ながらこの日は月曜の為休館日でした!
尚、二川宿のブログ記事は右記です。 https://hisashi1946.blog.ss-blog.jp/2016-05-31

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更に京都に向かって進むと左手に脇本陣の「藤屋興左衛門跡」です。
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次も左手に脇本陣 「仙台屋茂八跡」です。
 ここは「ベーカリー&カフェ 脇本陣」と言うお店で、ゆっくりとアイスコーヒーをご馳走になり「時ならぬ暑さと焼かれた背中」を冷やしました。
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次も左手に「田中九蔵本陣跡」です。
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 残念ながら江戸時代後期の「草津本陣」を見学する事は出来ませんが、本陣・脇本陣跡を見る事が出来ました。

 次回は草津宿から大津宿ですので、時間を取って草津宿を見学させて頂こうと思うます。
又、歌川広重の草津宿は草津本陣から約1.3km先の「瓢泉堂」さんの所との事で、次回確認してみようと思います。


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東海道五十三次,滋賀県の石部宿から草津宿 (その1) [ 東海道五十三次]

 
 2022年9月25日にJR三雲駅から石部宿迄を歩き、翌9月26日には石部宿から草津宿迄を歩きました。

 26日朝早めに起きホテルから外を見ると雲は殆どなく、今日も暑くなりそうな感じ。
 ホテルで朝食を取り、8時頃ホテルを出てJR甲西駅から石部駅に向かいました。
                      下はJR甲西駅
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 石部駅を出て200m、東海道に出ると「石部宿 西縄手」の表示板(黄矢印)がありました。

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 上記の石部宿 西縄手から草津宿迄の道中には下左写真の様な旧家と思われる家が点在し「旧街道を歩いているんだなァ~」と実感させられます。 
 下右写真のお地蔵様は石部宿 西縄手から2.4kmの所の地蔵尊です。 この街道には本当に多くのお地蔵様があり、途中の栗東市には「六地蔵」と言う地名までありました。

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又、所々のお宅の玄関には昔からの屋号が表示されていました。

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 で、石部宿 西縄手の表示から3.2kmの所で、街道は左に大きく曲がっており、曲がって直ぐの所に「金剛山 法界寺 地蔵院」と言うお寺さんがあり、下右写真の様な「木造地蔵菩薩立像」の説明がありました。 私はお参りをして、トイレをお借りしてお寺さんを後にしました。

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 地蔵院から約150mで「旧和中散本舗」に着きました。
 ここは大角弥右衛門家の邸宅で、昔のままだそうで、庭は小堀遠州作と言われ贅を尽くした江戸時代の豪商のお宅です。 事前の予約で内部が見学出来るとの表示がありました。

 江戸時代の六地蔵には旅人に道中薬を売る店が数軒あり、大角家は、その中で和中散という薬を売る「ぜさいや」の本舗として栄えました。 また草津宿と石部宿の「間の宿」として、公家・大名等の休憩所も務めたとの事。 和中散という名は、徳川家康が腹痛を起こした時、この薬を献じたところ、たちまち治ったので、家康から直々付けられた名前といいます。
 
(「間の宿」とは、宿場と宿場の間の距離が長かったり、峠越え等の負担の大きい街道では自然に休憩の為の施設が発展しました。これが間の宿で江戸時代には宿泊は禁止されていました。)

旧和中散本舗                吊下げ看板に「本家 ぜさい」との赤い表示が。
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 和中散本舗の前の坂を上って、約200m行くと「六地蔵一里塚跡」がありました。
六地蔵の一里塚は日本橋からで117里です。

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 で、更にテクテクと歩き約1km行くと西厳寺さんの前に「肩かえの松」がありました。
 松の下の石碑には「旅人はこの松の下で休息を取り、荷物を担う肩を変えた所である」の様な事が書かれていました。 その奥には小さな「二代目 肩かえの松」があり、傷つき少し弱っている様だった初代松の代替が用意されていました。 
(何となく"うゥ??"と思ったのは私だけ?! 今植わっている松は何時の時代に植えられた松なんだろうか? しかも初代が弱っているとはいえ二代目が準備されているとは。)

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 西厳時の肩かえの松から600m程歩いた所に「里内呉服店(下左写真)」、その隣は「塩屋藤五郎(下右写真)」さんと言う醤油屋さんの古い家がありました。 里内呉服店の中央には「登録有形文化財 文化庁」の表示(黄矢印の先)があり、明治5年操業の様です。 

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 里内呉服店から約300m、「東経136度 子午線」の石碑がひっそりと立っていました。
(地球上で日本の位置を示す石碑なのでもう少し堂々と大きい物を立てたらどうだろうか?)

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 136度の子午線から230mの所で左カーブを道なりに曲がり170m「第9代将軍 足利義尚公 鈎の陣所ゆかりの地」の石碑がありました。 実際の本陣はここから300m永正寺一帯だった様。
 ここは、応仁の乱の後、近江守護・六角高頼が寺社や奉行衆の所領を横領し始めた事で、室町幕府9代足利義尚が自ら軍を率い、この地に陣を敷いた。
六角氏は甲賀に逃れた。足利義尚公は病にむしばまれ25歳の若さで、この地で亡くなりました。

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 足利義尚の鈎の陣から道なりに1.1km歩くと「東海道・中郡街道」の石碑のある下左写真のT字路に突き当たり、更に右に曲がって進みます。 T字路を右に曲がった後200m程で又道なり左カーブを曲がって進みます。
 「東海道・中郡街道」の石碑のあるT字路から400mの所には下右写真の様な「目川村一里塚」の石碑と説明板がありました。 目川の一里塚は日本橋からで118里です。

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 更に歩き、一里塚から350m、目川の「田楽発祥の地」との石碑があり、下右の様な説明板が掲示されていました。 そして更に進むと田楽の「古志まや」さんの石碑、更に田楽の「京いせや」さんの石碑もありました。

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 下は目川田楽の京いせ屋さん跡で、歌川広重の「石部宿」の絵になった所だそうです。

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 次回のブログは「石部宿から草津宿迄 (その2)」を掲載すべく準備中です。

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東海道五十三次,滋賀県の水口宿から石部宿 (その2) [ 東海道五十三次]

  
 コロナ過で、東海道五十三次歩きは2020年2月から約2年半強中断していました。

 しかも、滋賀県の石部・草津・大津の3宿場と、大津宿から京都三条大橋迄歩けば完歩です。
後ほんのちょっとの所で足止めでした!!!
何とか再開したいとはやるを気持ちを押さえて来ましたが、先日やっと再開出来ました。


 前回2020年2月5日に歩いた時の終点「JR三雲駅」に先日2022年9月25日到着しました。
  あ~~~ァ やっと来れた!!! 
 で、万一何かあって動けなくなった時の為にと駅前のタクシー会社の連絡先カードを頂き、駅のすぐ目の前の東海道に出て、歩き始めました。

  秋晴れの快晴で ~~~ す!!   暑くなりそう!!

JR三雲駅                 駅前通りの旧東海道との交差点
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 まずは「野洲川の渡し跡」があった事を示す「常夜燈」を確認しに野洲川の上流方向に向かいました。 駅前交差点から約200mの所に常夜燈は有りました。 建立当時は現在の位置より200m上流だったとの事で、多分水口宿側の常夜燈とは野洲川を挟んで向かい合う形になっていたのでしょう。

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 水口宿から石部宿は下写真の様な道で、日差しに背を焼かれながら歩き続けました。

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 道中あっちを見たり、こっちを見たりとよそ見・寄り道の多い私は26分も掛かって、石部宿横田常夜灯から1.3kmのJRの線路を渡り、更に歩き横田の常夜灯から約1.8kmで「大沙川隧道」に着きました。 「大沙川隧道」の上には大沙川と言う川が天井川となって流れており、真上には弘法杉(青の矢印)と言う杉の大木がありました。
この杉は「弘法大師様が杉の箸で食事をした後、箸をさしておいた所芽が出た」との説も?

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 大沙川隧道から約500m道なりに進むと「夏見の里」と言う場所(下写真左)に出ました。
ここには何軒かの茶屋が有り立場(宿場と宿場の間の休息所)の役割も果たしていたそうです。 名物のトコロテンが売られ、銘酒桜川は計り売りされていました。 

 googleの地図によると「夏見の里」から更に約500mの所に「夏見の一里塚」があるはずですが、三雲小学校付近も含めあちこち探しましたが見つからず、諦め先に進む事にしました。

 一里塚を諦めて、更に500m程歩くと「由良谷川隧道(下写真右)」に出ました。
ここも天井川で、言葉尻を捕らえると「谷川が道路の上を流れています!!??」となる。

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 由良谷川隧道から750m程進んだ所で家棟川の橋の手前左側に「うつくし松」の看板(下写真左)、橋を渡り右側に「雨宮常夜燈(下右写真)」がありました。
 「うつくし松」は国の天然記念物で、今回の三雲駅から石部宿迄の中では「私の最大の目的地」であり、当然見に行きます。

うつくし松看板               雨宮常夜燈                     
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 東海道から左に曲り、約300m程坂を上って行くと松尾神社がありお参りした後、更に900m位坂を上った所に「うつくし松」の自生地があります。 下写真は赤松でありながら「株立ちのうつくし松」です。  (うつくし松の見学については別途このブログで紹介します。)

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 で、雨宮の常夜燈から約1.8kmの所に「石部宿東の見付け」の説明板があり、途中寄り道をした事等もあり、JR三雲駅から歩き始めて3時間半、やっと石部宿の入り口です。
(見付けは、街道の入り口やお城の入り口に置かれていた見張り番の施設)
 (2020年2月に「次は石部宿」と思い始めて2年7ヶ月、やっと石部宿の入り口にたどり着きました。)

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 東の見付けから700mの所には「問屋場跡」がありました。
 (問屋場は、江戸時代の宿場で役人が人足や馬の手配をする場所です。)

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石部宿問屋場跡の交差点から約70m、床屋さんの前に「三大寺本陣跡」の掲示板がありました。

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 三大寺本陣跡から約150m、通りの西側にお休み処といった感じの「いしべ宿澤」が有りました。 内部は昔風の造りで囲炉裏等もあり、誰でも自由に休息できる様になっていました。

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 いしべ宿澤で少し休息を取って、ほんの少し歩くと左側に「小島本陣跡」がありました。

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 で、いしべ宿澤から250m位歩いた所で突き当りとなり、その突当りには「石部の田楽茶屋」がありました。 いしべ宿には3軒の田楽茶屋があったそうで、この茶屋は旧石部町制100周年事業として平成14年に再現されたのだそうです。

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 田楽茶屋前で右に曲がり、約200mで再度T字路に突き当たり、左に曲がって50m位行くと「石部の一里塚跡」がありました。

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 更に進むと石部の一里塚から70m程の所に「石部宿西の見附跡」がありました。

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 で、この日は石部宿の西の端まで歩いた事で終了。   26000歩の旅でした。

 下の絵は歌川広重の石部宿の絵で草津宿に近い「京いせや」(現在の県道119号線、 滋賀県栗東市岡)だそうです。

広重の図                   滋賀県県道119号線の京いせや跡
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 JR石部駅で、私にとっては本当に懐かしいデザインの切符を買って、JR甲西駅まで戻りビジネスホテルで1泊です。

石部駅は工事中でした。
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 次回のブログは石部宿から草津宿迄のレポートです。


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東海道五十三次,滋賀県の水口宿から石部宿 (その1) [ 東海道五十三次]

  
 東海道五十三次を歩くのは、コロナ過で2020年2月から約2年半中断しています。

 しかも、石部・草津・大津の3宿場と、大津宿から京都三条大橋迄歩けば完歩です。
後ほんのちょっとの所で足止めなんです!!!
何とか再開したいとはやるを気持ちを押さえて来来ましたが、近々再開したいと思っています。


 実は前回歩いた2020年2月5日には水口宿から石部宿に向かって、JR三雲駅迄歩いていました。 東海道歩きを再開するにあたって、前回歩いた分をレポートしておこうと当時を思い出しながら記事を書きました。


 2020年2月4日の夜は「HOTEL NEW MIFUKU」に宿泊。
 2月5日朝は、ホテルを出て2・300m歩き綾野天満宮で一日の安全を祈願して、水口城に寄り道しましたが、

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 お城の内部は10時から開館との事で見学は諦めました。

 水口には水口岡山城があったが、関ヶ原の戦いで城主の長束正家(ナツカ マサイエ)は西軍につき自害、お城は廃城となった。 江戸時代に入り水口は、徳川の直轄地となり東海道の宿場町に指定された。
 3代将軍徳川家光が寛永11年(1634年)京都への上洛の際の宿として水口城を築き、城内には京都二条城の御殿を模した豪華な御殿が築かれた。 その後天和2年(1682年)に加藤明友が2万石で入城し、水口藩が成立した。
水口藩は、歴代、同城を幕府から借りている城として管理し、本丸御殿は家光上洛以後使われる事はなく正徳年間に解体され空き地のまま明治を迎え廃城となった。

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 東海道歩きに戻って、お城近くに「小坂の水口石」と言う力石がありました。

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 水口石から百軒長屋跡(下写真)の前を通り、400m歩き五十鈴神社に出ました。 この五十鈴神社前角には江戸から113里(452km)の一里塚「林口一里塚」がありました。
 百軒長屋は水口藩の下級武士の居宅だったものです。 五十鈴神社には「林口の勧進縄」がしめ縄の様に張ってあり、その説明板もありました。

百軒長屋跡                  
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五十鈴神社
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 五十鈴神社を出て左に曲がり最初の信号を右に曲がって270m進むと「酒蔵の美冨久」に到着。 甲賀地域は滋賀県の酒造の約1/3が集まっているそうです。 ちなみに私は下戸。
 酒屋さんの隣は「柏木神社」の鳥居で、約300m奥の方に神社が有る様ですが体力や時間を考慮し先を急ぐことに。

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 所で、この道は北脇縄手と言われていた所で、以前のレポート「東海道五十三次,滋賀県の土山宿から水口宿 (その2)」で書きましたからくり時計から泉川の河原屋敷橋Y字路交差点を左に曲がる迄の 4.0km真直ぐな道が続きます。
「東海道五十三次,滋賀県の土山宿から水口宿 (その2)」
   https://hisashi1946.blog.ss-blog.jp/2020-02-23

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 で、柏木神社の鳥居から歩く事約250m、「北脇縄手と松並木」の石碑がありました。
歌川広重の水口宿の「干瓢を干している絵」はこの付近の風景との事です。

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 「林口一里塚」から約30分1.2kmで甲賀市柏木小学校や柏木公民館前に出ました。

 この北脇縄手には下右の様なお地蔵さんが屋根付きだったり屋根無しだったりするが、何ヶ所にも祀られていました。

下写真は公民館前の半鐘と北脇縄手のお地蔵さん
 火の見櫓には半鐘を撞く為に櫓を登っている人が! (人形でした。)
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 柏木小学校から1.5km 休みやすみで約30分、泉福寺と言うか日吉神社に出ました。
このお寺さんと神社さんは一見一つの敷地に建っている様でした。
(明治時代に神教分離で今は寺と神社は別々になっていますが、江戸時代までは一体の所が多く、ここは下の説明にもある様に「寺の守護の為の神社」が多かった様で、無理に分離しなくともよかった様に思います。)

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 泉福寺でゆっくり見学や休息を取り、その後歩く事約5分,300mで「泉川の河原屋敷橋Y字路交差点」に出ました。 多分ここ迄が「北脇縄手」でしょうね?
そしてY字路の橋を渡り、約100mで114個目の一里塚「泉の一里塚」に出ました。 

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 一里塚から道なりに歩く事100mちょっと 数分で「横田渡跡」に出ました。
横田渡しは、昔はこの辺りの野須川を横田川と言われていた為に「横田渡」となった様で、江戸時代に整備された東海道では東海道十三渡しの1つとして重要な渡しでした。

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 ここの大な常夜燈は地元や京都・大阪の万人講の方々による寄進で1822年に建てられましたが明治以降の水害等で一部形状が変わっているとの事。 横田渡しは明治24年に板橋がかけられたとの事。

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 横田の渡しで右に曲がり約500mで和泉西交差点で国道1号線と合流。 
 私は、交差点を横切り、1号線の右側歩道の様な道路を400m進み、国道の下をくぐると朝国交差点に出ました。 ここで交差手を横切り、横田橋を渡ります。

横田橋で野須川の南方向をのぞむ。       横田橋で三雲側から振り返って見た。
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 横田橋の三雲側で歩道の階段をおり、左に曲がった所でこの時の東海道歩きは終了とし、三雲駅にむかいました。 
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そして 2年半!!!!!!!!!!!   長かった中断!!!
今月予定の東海道歩きは三雲駅側の「横田渡の常夜灯」の見学から歩こうと思っています。


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東海道五十三次 箱根宿(三島スカイウォーク)から三島宿 [ 東海道五十三次]

 
 先日(2020年10月12日)、三島市の三島スカイウォークから三島宿迄を歩いて来ました。
 新型コロナの影響で、2020年2月5日以来の東海道歩きです。

 2016年2月に箱根の関所から三島宿に向かって歩き始めましたが、三島のスカイウォークで休息中に何となく熱っぽく,だるくなり歩くのを止めました。
翌日も寒気がして具合が悪く、病院に行った所「インフルエンザ」との診断!!!
(実は生まれて初めてインフルエンザとの診断を受けました。)
この時の箱根宿~三島スカイウオーク間の記事は下記のページです。
 https://hisashi1946.blog.ss-blog.jp/2016-02-20


 その後、三島宿迄の残り部分を飛ばして先に進み、今は滋賀県の水口宿迄到達しています。

 従って、三島スカイウォークから三島宿の間は長い間「歯抜け状態」となっていました。
 この新型コロナ過の中、電車で滋賀県迄は自粛しようと、個室となる車で三島のスカイウォーク迄行き、スカイウォークに車を止めさせて頂き三島宿迄歩き、バスでスカイウォークに戻り車で三島駅近くに行き宿泊、翌日は沼津港で海鮮丼を食べて帰宅しました。


 前置きが長くなりましたが、10月12日快晴の中家を出て、途中なんども車窓から富士山を見て、「スカイウォークで富士山が見えるかも」と期待しながら車を走らせました。

下写真は、途中の寒川町からの富士山です。 大きな鳥居は寒川神社の鳥居です。
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 又、「箱根宿~三島宿の間の接待茶屋」の所の国道1号線を挟んだ向かいに小さな小屋がありました。 前回旧東海道を歩いた時は「接待茶屋で使った井戸だろう?」等と勝手に思い込んでいましたが、今回小屋に寄って見た所、接待茶屋を再興した鈴木とめさん力之助さん親子の像でした。

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 で、今回の出発地点となる三島スカイウォークに到着です。

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 スカイウォーク入口のほぼ真正面の道路を挟んだ向いに旧東海道の石畳入り口があり、案内版等も立っていました。 その直ぐ先の右側には馬頭観音の祠もありました。

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 スカイウォーク入り口から約350m、笹原一里塚がありました。 おわん型に盛り土をして、中央に木が植わっている昔ながらの形です。 (一里塚は本来、街道の左右に一対です。)

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 笹原の一里塚から70m位歩くと広い道に出ますが、真直ぐに横切り進むと、急な下り坂となります。 この坂が下長坂(こわめし坂)です。
 余り急な坂なので背負ったお米が熱で強飯になってしまうと言われるくらいの急坂です。 坂を歩いて見て、下りで良かったと心底思いました。

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こわめし坂の途中の横道から三島や沼津の街と駿河湾を見ながら小休止です。
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こわめし坂を下り広い道に出ると、はす向かいの丘の上が天神社(山神社と合併)です。
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下写真は天神社から750mの所ですが、青空の快晴! でも富士山だけが雲隠れ!
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 更に歩き天神社から1.2km,松雲寺から800mの所で広い通りと別れ右側の路地を下ります。 10か20m先の右側に坂公民館、坂公民館前から更に150m程進むと(三島市立坂幼稚園の手前に)右側に入る急坂の路地があります。 そこには東海道の案内板や七面堂旧跡の碑が立っており、この急な坂を「法華坂」と言うそうで、ここを下ります。

法華坂の入り口                 法華坂の出口は階段です。
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 法華坂は最後階段になっており、階段を下りて70m、再度広い道に出ました。
その右角に「昭和12年8月 出征馬記念碑」と言う碑がありました。 細かな説明は見つからなかったが、太平洋戦争の時に出征した馬達を惜しんで建てたのでしょう。 戦争では人の他多くの動物達も犠牲になったんですね。

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 「出征馬記念碑」の石碑から300m、よく手入れをされた「六地蔵」の前を通り、更に約100m歩いた所で右に入る脇道を行きます。 この下りの坂が「臼転がし坂」で、400mの坂道はうっそうとした森の中を歩いている様な感覚にとらわれました。

臼転がし坂の入り口              坂の途中の景色
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 臼転がし坂を出て、約1.1kmで国道1号線に出ます。 1号線に沿って少し歩くと、「初音ヶ原石畳歩道」に到着し、ここを歩く事になります。
この石畳を歩き始めて約200m、上り・下り一対の盛り土をした「錦田一里塚」に出ました。

国道1号線の上り車線側の「錦田一里北塚」
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国道1号線の下り車線側の「錦田一里南塚」(北一里塚から見た所です。)
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 上記一里塚から約700mの所の「5本松交差点」で下写真の黄色矢印の歩道に入り、国道1号線と別れます。 この道は少し行くと急坂で「愛宕坂(あたござか)」と言います。

愛宕坂入り口                  愛宕坂の途中
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愛宕坂の説明板(実は三島スカイウオークからの急坂には何か所か坂の説明板がありましたが、写真を取り忘れました。)
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 愛宕坂を過ぎJR東海道本線の「旧東海道踏切」を通り約500m、大場川手前の所で左に入り「宝鏡院」で「足利義詮・足利政知」のお墓にお参り。 その後大場川を渡り左折、川沿いの道を50m「無縁法界(むえんほうかい)地蔵尊」にお参りをしました。

 下写真は「無縁法界地蔵尊」ですが、ここには下記の様な説明がありました。
「江戸時代、重罪をおかし斬罪となった者の首は東海道を往来する人々への見せしめとされました。 宿はずれの新町橋際にあった獄門台にのせられ、罪状を書いた捨札を立て、番小屋には番人を置き、数日間晒したといいます。 これらの晒し首で引取り人のいないものを哀れんで、霊を慰めるためいつの頃からか地蔵尊が安置され供養されるようになりました。」

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 大場川の新町橋に戻り、橋から650m、三島神社に到着しました。
三島スカイウォークから坂を下って、下って、又、下ってやっとの事三島大社に到着です。

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 現在の三島神社の鳥居は灯篭の前に有りますが、広重の絵では鳥居の前に灯篭があります。
灯りが乏しかった昔は道路を照らす事が優先されたのでしょうか?

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 三島神社を過ぎた500mの所に「樋口本陣」がありますが、久しぶりの東海道歩き,寄る年波もあるのか疲れて、2016年に三島宿から沼津宿へと歩き始めた、三島神社から400mの交差点で今回の完歩しました。

 箱根宿の関所を2016年2月20日に歩き始め、三島宿への到着は2020年10月12日となりました。  実に4年9ヶ月と20日間と言うべらぼうに長い旅でした。


 本当は滋賀県の水口から石部宿を歩きたかったのですが、長時間電車に乗ったりと人との接触が多いと思い、歯抜けになっていた三島宿迄を自宅から車(個室)での移動として三密を避け安全策を取りました。

 次回の東海道歩きは、来年滋賀県の水口宿JR草津線「三雲駅」からになると思います。
石部宿迄の間のJR甲西駅から南西へ1.5kmの「うつくしの松」を早く見たいのですが!!!


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東海道五十三次,滋賀県の土山宿から水口宿 (その2) [ 東海道五十三次]

  
 前回、2020年2月19日にレポートした「東海道五十三次,滋賀県の土山宿から水口宿 (その1)」の続きです。

 国道1号線の交差点「大野西」では国道を左側に横切り、斜め左に続く「県道549号線」を歩くのですが、県道左脇には石庭の様な所があり、柱状の看板には「水口宿」とありました。
 夕陽に追いかけられながらも、「水口宿」の文字に元気をもらい、先人の地図を見ながら 一生懸命に歩く事に!

 大野西の交差点から約150mで右折し、「居酒屋 仕事人」の前を通って急坂を上って行き、居酒屋 仕事人から400m、「古民家カフェ一里塚」の先に「今在家(いまざいけ)一里塚跡」がありました。「江戸から112番目の一里塚」との事。
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 一里塚を過ぎたら最初の路地を左に曲がり、再び「県道549号線」に出て350m程歩き、甲賀市のコミュニティバス 和野・中畑ルートのバス停「今郷」で右側の路地に入って行き、更に、500m程歩くと再び「県道549号線」に合流、岩神社参道に出ます。 
参道の入り口には岩神の説明や「子供の名前」の付け方等が説明されていました。
           写真をクリックすると大きく表示されます。
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 岩神社参道の前を通り、再び県道から離れ、右側の路地に入って行きます。
(旧東海道を路地と書きましたが、道が狭いだけの事で本来は長~~い歴史のある本道です)
路地に入って約1.0km でY字路を右に入り、650mで「秋葉北」の交差点を横切ります。
 「秋葉北」の交差点には用水路が流れ、その下には直角方向に川(これも用水路かも)が流れ、2段階の水路となっていました。 上側の用水路を「天井川」と言うのだろうか?

「秋葉北」の交差点から150m強で、「東海道水口宿 東見附跡」に出ました。
やっと水口宿に着き、冠木門がありましたが、なぜか宿場入り口を示す写真を撮ってない!!!  見附跡には東海道の説明掲示板が!

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 見附から約70m程歩くと「田町・片町曳山蔵」がありました。
ここの曳山蔵がどのようなものだったかをも見ずに写真だけ。
 帰宅した今思うと、この時午後5時を回っており、この日の終点と決めていた「近江鉄道線路脇の三筋の辻 からくり時計」迄明るい内に着きたいとの思いで焦っていたのだろう!

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 で、見附から「元町の交差点」を横切り120m、「水口宿脇本陣」の一部が残されていると言うお宅に到着です。 水口宿の脇本陣は文久3年(1863年)の「水口宿内軒別書上帳」には記述がみられる事から19世紀前半の建物と推定される様で、脇本陣の特徴の大きな間口・奥行きが見られ、元の家屋規模は水口随一だった)ようです。
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 脇本陣のお宅から約50m、左側にごみ箱と消火栓の陰に隠れる様に「水口宿本陣跡」の表示板がありました。

 水口宿の説明板では、
「水口は道によって開け、道によって発展した所です。
この地には古くから東国へあるいは伊勢への道が通り、人々の往来が頻繁であったようですが、室町時代には伊勢参宮の将軍家が休泊しているように宿村として開け、また市が立つところであったようです。
 しかし、現在につながる町の基ができたのは、天正十三年(1585年)秀吉が家臣の中村一氏に命じて城(水口岡山城)を築かせてからのことです。 この時山ろくの集落は城下町となり、城主三代、十五年の間に市街地の基礎が形成されました。
 関ヶ原合戦翌年の慶長六年(1601年)、交通体系の整備に取りかかった徳川氏は、東海道を整備しその要所の町や集落を宿駅に指定、公用人馬の迅速な輸送に備えましたが、直轄の地でもあった水口はこの時宿駅に指定され、明治初年まで東海道五十番目の宿場として歩みました。」
とあった。

 また、「水口宿は甲賀群内の3宿場中最大規模で天保14年(1843年)には家数692軒内旅籠41軒」だったそうです。

本陣の碑への入り口
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本陣の碑と明治天皇の碑
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 本陣跡前から約50mでY字路に出ますがここは左に行きます。
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 で次のY字路は右に行きます。
(水口宿の街中は3本の平行な道(三筋)があり、旧東海道は真ん中の道の様です。)
 右側に入って約50mで「旅籠町曳山蔵」の前に出ます。
「水口の曳山は享保20年(1735年)に9基の曳山が巡航し、その後1町毎に曳山が建造されるようになり、その数30基余りに達したと言われるている。 当地(旅籠町)の曳山は「層露天式人形屋台」と言う構造をもち、複雑な木組み、精巧な彫刻、華やかな幕を飾り付けて巡航し、巡航後は組みあがったまま、各町内に建てられている「山蔵」に収納されている。」との事。

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 旅籠町曳山蔵から100m強の十字路左角に「問屋場跡」がありました。
問屋場は、宿駅本来のの業務である人馬の継ぎ立てを差配した所で、宿駅の中核的施設として、公用貨客を次の宿迄運ぶ伝馬と、人足を用意しました。

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 問屋場の十字路から約100mの次の十字路の右手前には、1台目の「からくり時計」がありました。 水口地区の曳山をモチーフにして作られているそうです。
ここ水口宿 大池町のからくり時計は、午前9時・正午・午後3時・6時になると水口囃子を演奏してくれるそうです。

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 更に三筋の真ん中を暗くならない内にと頑張って600m程歩き、「三筋の辻 からくり時計」に到着しました。 何とか明るかった。
しかし、なぜか直ぐにホテル迄明るい内に行こうと考え時計の写真を撮るのが精一杯でした。

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 で、今回の「土山宿から水口宿迄の東海道五十三次歩き」はここ迄とし、この間は10.6kmとの事、私は寄り道が多かったりで、自宅からの歩数は何と32000歩強でした。


 尚、水口宿の「歌川広重の絵」は 干瓢を干す人達の絵で、この絵によって水口の干瓢が全国区の名産になったそうです。
 場所は「三筋の辻 からくり時計」から1.8km、「北脇縄手と松並木」の石碑(下写真中央の石碑)付近だそうです。 今の北脇縄手は、水田地帯で縄手の両側に民家があるだけです。
(幸い水口から三雲駅まで歩いていたので、広重の絵の場所を見つける事が出来ました。)

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今の北脇畷の石碑付近
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 で、翌日は疲労もあり水口城の見学、旧東海道歩きは三雲駅迄としました。 この時のレポートは次の宿場「石部宿」迄到達した時にレポートします。

 何とか東海道五十三次の内、50番目の宿場迄踏破した事になりました。
あとちょっとですが、次に歩けるのは何時だろうか??!!


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東海道五十三次,滋賀県の土山宿から水口宿 (その1) [ 東海道五十三次]

  
 先日、東海道五十三次の内の土山宿から水口宿を歩いて来ました。

 土山宿には昨年の11月に到着していた物の、天候不順が続き12月も中止、1月も中止となり、やっと冬らしくなった今月、天候に恵まれ歩く事が出来ました。

 何時もの様に、早朝家を出て、小田原では何時もの新幹線に乗り、米原駅で東海道本線に乗り継ぎ、更に草津駅で草津線に乗り貴生川駅(きぶかわえき)で下車。
私の記憶では米原付近は吹雪の日が多く、新幹線の遅れの原因なる地区だったと思いますが、今年は全く雪はありませんでした。

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 貴生川駅からは甲賀市のコミュニティバスで甲賀市の「近江土山」で下車。 前回訪問の最後となった「東海道伝馬館」に行きましたが、残念ながら伝馬館は休刊日でした。
(伝馬館は月・火・年末年始が休館で、開館日は9時~午後5時)
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 で、旧東海道の土山家本陣から歩き始め、土山家本陣から約200m大き目の交差点を過ぎると右側が大黒屋本陣で、問屋場や高札場もあった様です。
 大黒屋本陣は、三代将軍家光が参勤交代制を施行し以来諸大名の宿泊が増加し、土山家本陣だけでは収容しきれず、豪商の大黒屋立岡氏に控本陣が指定された。 古地図によると、門,玄関,大広間,上段間をはじめ多数の間を備え壮観だった様です。
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 大黒屋本陣から 5・60m歩いた左側に土山陣屋跡がありました。
陣屋は、江戸時代勘定奉行の配下である代官が在住した屋敷です。土山宿の陣屋は天和3年(1683年)当時の代官猪飼次郎兵衛の時に瀬古川の東崖に建造され、寛政12年(1800年)の大火で焼失する迄120年間続いた。 焼失以後陣屋は再建されなかった。
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 陣屋の先の「大黒橋」を渡って先に進みます。
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 大黒橋から400mで国道1号線に出ました。 ここが土山宿の西の出口当たる様です。
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 国道を約100m進むと2基の古い石柱がありました。
石柱の所には「道標 御代参街道起点」の説明板が立っていました。
 説明板の冒頭「この道標の左に進む小路が旧御代参街道で、右斜めに進む道が旧東海道である。」とありました。
 が、旧東海道は、今は先に「野須川」があり、川を渡る橋は無く、左斜めに行っても戻って来るしかないのですが、取り合えず左斜めに行き昔の人が通った道から川を見て見る事にしました。 尚、この石柱は1788年と1807年建立の古い物です。
(説明板の詳細は写真をクリックして大きく表示し読んでください。)
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 国道から右斜めに曲がって約300m小さな十字路に出ます。 ここには真直ぐは「通行不可」を示す道案内の地図が立っていました。 で、私はあえて真直ぐに行き、「野須川」に出ました。 途中には「馬頭観音の小さな祠」もありました。

 右手前が祠、遠くに見える車の所が道の終点であり「野須川の堤防」です。
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 堤防に立って「昔の人はどの辺を通って川を渡ったのかなァ~」と想像してみました。 私の推定では黄緑矢印位置に上陸したのだろう。
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 野須川から約250mで先程の「通行不可」の看板に戻り、右折し約250mで国道に戻ります。 国道を更に250m歩き今度は左折して歩行者と自転車専用の橋「歌声橋」を渡ります。
(旧東海道歩きの私からすると、こんな立派な歌声橋よりも沈下橋でもいいから旧東海道の位置に橋をかけて欲しかった。)
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 歌声橋からの野須川です。 大きな橋は国道1号線です。
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 歌声橋を渡りすぐに国道1号線に戻り、野須川の西側の堤防には行かず国道を歩く事に。
約200で国道の左側に「伊勢大路(別名 阿須汲道)」と書かれた石碑が(下写真左)あり、ここが昔の旧東海道だろう。 
 国道から左斜めに入り100m強歩くと歌声橋からの茶色にカラー舗装された道に合流します。 で、ここの看板では「野須川」は「松野尾川」(下写真右)となっていました。
野須川はこの地区では昔から松野尾川等と言われ、地区によっては松尾川,松野川,内白川とも言われていた(いる)様です。
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 松野尾川との案内板から茶色く舗装された道を200m程歩いた右手に「牛頭天皇(ごずてんのう)」と書かれた灯篭のある社がありました。
(野須川の堤防近くには馬頭観音がありました。)
(牛頭天皇は右ウイキペディアを参照願います。https://ja.wikipedia.org/wiki/牛頭天王)

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 で、この辺りは近江茶の産地でもあり、地安禅寺には「林丘寺宮御植栽の茶(下右写真)」の石碑もありました。
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 地安禅寺から450mで垂水頓宮御殿跡の石柱を左手に見なて、更に進むと地安禅寺から約1.0kmで「市場の一里塚」に到着しました。
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 一里塚から100m弱歩くと小さな川の手前に「大日川掘割」の石柱があり、川を渡った先の左の説明板によると、掘割は洪水対策の為に元禄16年(1703年)に完成したとの事。 下右写真の黄緑矢印が野須川です。
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 旧街道が野須川にかなり近づいたので個人宅の駐車場からパチリと取らせて頂きました。
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 そして、一里塚から1.5kmの所に「旅籠 舛屋」さんの石柱があり、上を見ると「旅館 ますや」の看板が! で、近所の酒蔵場さんに伺った所江戸時代から続くお宅だそうです。
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 ますやさんから 300m弱で国道1号線に出ます。 国道の手前の角には「みよし赤甫亭」と俳諧の「三好赤甫」さんの石碑、そして立派な鬼瓦の道祖神だろうか小さな祠がありました。
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 で、国道を横切り、旧街道を 1.7km歩くと再び国道との交差点「大野西」に出ます。 ここには大きな灯篭と今宿の石碑がありました。
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 この国道1号線交差点「大野西」では国道を左側に横切り、斜め左に続く「県道549号線」を歩く事になります。 国道を横切った左には下の様な看板と石庭の様な場所がありました。
 日影が非常に長くなり今にも日が沈みそうですが、柱状の看板の文字は、やっと出会った「水口宿」です。 
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 何とか明るい内に「近江鉄道」の線路わきの「水口,三筋の辻 からくり時計」に着きたいと頑張って歩きましたが、レポートは長くなりますので、今回はここ迄にします。

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東海道五十三次 坂下宿から土山宿 その2 滋賀県歩き始め [ 東海道五十三次]

 
 10月27日の日曜日、東海道53次の内亀山市の坂下宿から鈴鹿峠を越えて滋賀県甲賀市の土山宿迄を歩いて来ました。 
その時の「鈴鹿峠越え」の様子は下記のブログを参照ください。
   https://hisashi1946.blog.ss-blog.jp/2019-11-02
(クラシックカーショー等があり、レポートが遅れました。)


 今回は、上記ブログの最後にレポートしました「万人講常夜燈」からレポートを始めます。
(万人講常夜燈は金毘羅参りの道中の安全を祈願して、江戸時代に中山,坂下,甲賀谷の人達が 建立した常夜燈です。)
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万人講常夜燈を過ぎると国道1号線に合流し、暫く国道沿いを緩やかに下って行き、万人講常夜燈から400mで初めて民家に到達しました。
10月末、山中川の渓谷は紅葉も始まり甲賀の里にも秋が近づいていました。
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 万人講常夜燈から約2kmの十楽寺(下左)の前を通過。
十楽寺付近からは前方に「新名神高速道路」が見え始め、十楽寺から約350m歩くと小さな公園と休息所が有り、そこを斜め右の路地に入り約200m歩いた右には地蔵堂も有りました。
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 地蔵堂から500m強歩くと新名神高速道の下に「第2名神滋賀県起工の地」の記念碑があり、向かいには下写真の「鈴鹿馬子唄を表現した馬と人の石像」と「一里塚の説明板」も有りました。(この公園の一番手前に山中一里塚の石柱が有ったはずですが、私は見逃した。)
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 本来、新名神下の一里塚から国道を渡り細い路地を上って行くのですが、直ぐにコンクリート工場に突き当たりUターン風に国道に戻されるので、続けて国道を歩く事に。

新名神の下から700m程歩き「猪鼻」の交差点をUターン風に右に曲がり国道から離れます。
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 約180m進み左折して更に約200m進むと右側に「旅籠 中屋」さん。
ご近所の方によると写真のお宅が昔から続いている「中屋」さんだそうです。
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「中屋」さんから180m位道なりに歩き急な坂を上ると、再度国道1号線に出ます。
国道に出た後、国道を450m進むと右側にちょっと汚れた「蟹が坂」の道案内板があり、案内板の通り右側の東海道(赤い道)を進みます。
(今回、歩き始めた時に出会った蟹さんはここ蟹が坂から私を迎えに来たのでしょうか?)
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 道案内版の所から東海道を約600m歩くと「蟹坂古戦場跡」の石碑等が有りました。

 天文11年(1542年)9月、伊勢の国司北畠具教が甲賀に侵入しようと神戸丹後守と飯高三河守に命じ、鈴鹿を越え山中城を攻めさせた。 山中城主山中丹後守秀国は直ちに迎え打ち北畠軍を敗走させた。 更に北畠軍は伊予の軍勢を加え山中城を攻略しようとしたが、山中城の秀国は六角定頼に援軍を乞い、再度山中城の秀国勢が勝利を収めた。

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 蟹坂古戦場跡から道なりに真直ぐ300m進むと「海道橋」と言う田村川に架かる橋に出ました。 海道橋は安永4年(1775年)にかけられた「田村永代板橋」を復元した橋です。
往時の橋は幅二間一尺5寸(4.1m),長さ二十間三尺(37.3m)で低い欄干が付いていたとの事。 
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 田村川は歌川広重の土山宿の絵「春の雨」の場所でもあります。 広重の絵にも低い欄干が描かれています。 下右写真が現在の田村川で現在も水は豊でした。
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 田村川を過ぎ、田村神社の杉やヒノキの木立の中を200m程歩くと「立札場」で、左に行くと東海道、右に行くと鳥居をくぐり田村神社です。
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 で、私は鳥居をくぐり、田村神社にお参りして行こうと。
田村神社は弘仁3年(812年)の創建で、坂上田村麻呂公を主祭神とし、嵯峨天皇や倭姫命(やまとひめのみこと)をも祀っています。
坂上田村麻呂公は平安時代の武人で延暦16年(797年)には桓武天皇から征夷大将軍に任じられています。 下写真左が本殿への参道,下写真右が本殿です。
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 田村神社の参道を真直ぐに進み国道1号線の横断歩道橋を渡った所で飴屋さんがあり、購入しました。 飴は昔からの作り方で、もち米と麦で作っておられるとの事。
(自宅に帰り食べた結果は、確かに甘いのですが稲わらのにおいがして、現代の美味しさに慣らされている私には美味しいとは言い難い物でした。 多分これでも江戸時代は本当に甘く美味しい高価なものだったのでしょう。)
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 前日家を出る時は「鈴鹿峠越え」で体力を使い果たし、ここ田村神社からバスに乗り近江鉄道の水口駅に出ようと思っていましたが、予想外に「鈴鹿峠越え」がきつくなく、バスの時刻表を確認し、土山宿の本陣まで行こうと更に歩く事に!


 国道1号線を歩道橋で横切って、右に道の駅「道の駅 あいの土山」を見ながら100m、土山宿の説明板を始め石碑等があり、土山宿の入り口に着きました。
(江戸時代の土山宿の入り口はここから750mも先の来見橋(くるみばし)だったらしいのですが、ここから商家や旅籠等が続いていた様で、実質土山宿の入り口です。)
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 上記土山宿の入り口から400m左の所にはお地蔵さんの祠が有り、又、「お六櫛の三日月屋」さんの表示も幾つかありました。
 お六櫛は目の細かい丁寧な作りで有名だった様で、その始まりは「1669年に信濃の旅人が伊勢参りの後京見物に行く途中で病に倒れ、土山の生里野の民家で介抱し助けられた。 その旅人がお礼にと「お六櫛」の製法を伝授すべく再度土山を訪れた」という事の様です。
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 お地蔵さんから300mで、地域の方が運営する「扇屋(櫛や扇を販売していた)伝承文化館」が有り内部を見学でき、無料休息所になっていました。
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 更に100m程歩くと「一里塚」が有りました。 実は約400m手前のお地蔵さんの所に下右写真の石碑があり、左江戸に150里,右京に15里とありました。
(既に日本橋から600km歩き、後60kmで京都。こんなに歩いた「俺ってすごい!!」と自分に感心。)
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で、上記扇屋さんの休息所から約450km、「来見橋」に到着です。 ここ迄に多くの商家や旅籠跡がありましたが、ここが江戸時代の土山宿の入り口です。
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 来見橋から約300m歩いた左側に「旅籠 井筒屋跡」そして右側の酒屋さんの2軒先が「旅籠 平野屋跡」がありました。 その斜向かいはカフェとそばの「うかい屋」さんです。

 文豪森 鴎外の祖父で「森 白仙」が文久元年(1861)に、ここ旅籠 井筒屋で病死した。 森 白仙は代々津和野藩主亀山家の典医を仕えた家柄です。 
 旅籠 平野屋さんは、森 鴎外が明治33(1900年)年3月2日祖父森 白仙の墓参の為土山を訪れ」1泊した旅籠です。 近くの河原の墓地に埋葬された白仙の墓が荒れ果てており、見かねて南土山の常明寺に埋葬。 後に白仙の妻と娘ミネ(鴎外の母)と共にこの寺に葬られたが、更に昭和28年3人の墓碑は津和野の永明寺に移葬された。

下写真左は井筒屋跡で、右が平野屋跡の石碑です。
(井筒屋さんの写真は車が駐車しており撮る事が出来ず、下の先人のページの写真を借用しました。 この方は地図等もきちんと整理したページになっております。
http://nonbiritabi.edo-jidai.com/toukaidou/toukaido_doucyuuki_index.html

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 カフェとそばのうかい屋さんの1軒先に「二階屋本陣跡」が有りました。
 代々忠左衛門と名乗り、史料上の初見は延宝8年(1680年)で以降本陣を務めたが、幕末には衰微し西側の大旅籠の大黒屋が代わりに本陣を務めた。 伝馬館の方の話によると建物は江戸時代のままだが大幅に改築しているとの事。
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 二階屋本陣のはす向かいの伝馬館入り口の所に「問屋場跡」が有りました。
問屋場と言うのは公用通行の荷物や人馬の中継、宿泊施設の手配等を行う場所です。
尚、ここの問屋場は明治になり廃止され、その施設は成道学校として利用されました。
又、下右写真のお宅は問屋場跡から3軒先右側の家で「問屋宅跡」と表示されていました。

 土山宿には「問屋場跡」と「問屋宅跡」と二つの石柱が有り、問屋宅跡の説明板には「土山宿には東海道を挟んで「北土山村」と「南土山村」の二村が並立する二つの行政組織が存在した。 土山宿の問屋はこの両村を纏めて宿駅業務を運営」と説明されていました。

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 そして、「問屋宅跡」の隣が「土山家本陣跡」です。
土山家本陣は寛永11年(1634年)3代将軍家光が上洛する際に設けられた本陣です。
 土山家の初代は甲賀武士 土山鹿之助で、3代目喜左衛門の時に初めて本陣職を務め、参勤交代が無くなる明治3年(1870年)10代目喜左衛門の時に本陣の役目を終えた」との事。 
 又、伝馬館の方によると本陣をしていた時代の貴重な資料が多数保管されており、写真の建物は昭和初期に建てた家ですが、本陣時代の家と同じに建てたそうで、見学は予約制との事。
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 最後に土山宿の「東海道 伝馬館」に寄りましたが水口駅まで行くバスの時間もあり、短時間の滞在となりました。
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 三重県では毎回の様に雨や雪に合い、予定変更の連続でした。
 今回やっとの事相性の悪かった三重県を脱出する事が出来ました。

 滋賀県はどうなるのだろうか??? 多分好天に恵まれ順調に進むといいな!!!


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東海道五十三次,坂下宿から土山宿 その1:鈴鹿峠越え [ 東海道五十三次]

 
 連日雨が降ったり止んだりの中、先日、東海道五十三次の内の西の難所と言われていた
「鈴鹿峠越え」の亀山市の坂下宿から滋賀県甲賀市の土山宿迄を歩いて来ました。

 鈴鹿峠がどの位きついのか、峠越えの後次の集落迄どの位時間がかかるのか分からない為、
峠超えには十分な時間を確保しようと、前日関駅近くのホテルに宿泊し翌日早めに出発。
 今回は天候の具合から出発日を変更し日曜日になってしまった為、タクシーで前回の終点「坂下宿の岩屋十一面観世音菩薩」前に9時頃到着。
(坂下迄行く公共交通はコミニティバスのみで、日曜日はバスがお休みなのです。)


 鈴鹿峠は、
伊勢の国(三重県)と近江の国(滋賀県)の国境で、標高378mの峠です。
都が奈良盆地に有った頃は伊勢から加太峠を通り伊賀へ抜けるのが東海道だった。 仁和2年(886)伊勢から鈴鹿峠を通って近江に入る「阿須波道(あすはどう)」と称する新道が開かれ、この鈴鹿峠越えが東海道の本筋となった。
 昌泰元年(898)伊勢神宮に下った勅使が山賊に襲われ、又、建久5年(1194)には源頼朝が近江国山中の地頭山中氏に山賊退治を命ずる等、山賊が横行していた峠でもあった。


前回の終点の「坂下宿の岩屋十一面観世音菩薩」前です。 地面を見ると鈴鹿峠を越えた土山宿の「蟹が坂」から出迎えに来てくれたのか「沢蟹」が待っていてくれました。
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十一面観音菩薩前から歩くこと550m、国道1号線と別れ峠への山道を登ります。
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 国道と別れ、5分位奥に入った下写真左側の杉林が「古町」と言われる旧坂下宿です。
 慶安3年(1650)9月の大洪水で旧坂下宿は壊滅、1年後に1km程くだった現在の坂下に宿場を再建しました。 
 前方を歩いている方々はボランティアの方々で、市職員の方々と共に「片山神社」とその周辺の遊歩道をメンテナンスしに行かれるのだそうです。 ご苦労様です。
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上写真の古町から2・3分進むと左に可愛い滝がありました。 
後で分かったのですが、この滝の水は片山神社脇から流れてきていました。
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 小さな滝から4分ほどで片山神社に出ました。

 片山神社は、古くは「鈴鹿明神」「鈴鹿権現」等と呼ばれ延喜式内社に列せられている神社で古代から信仰を集めてきました。 元は二子山に祭祀されていたが、火災により永仁2年(1294)現在地に移された。 尚、今は2002年の放火で昔の社は無くなってしまった。
 旧東海道はこの辺りから「鈴鹿坂八丁二十七曲がり」の急坂が始まり「東の箱根峠、西の鈴鹿峠」と言われた難所であったとの事。
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下写真左が以前本殿があった所(今回のボランティアのメンテで草刈りをされるのでは?)
下写真右が神社内石垣の中段に祀られた本殿の社に相当する祠
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 で、旧東海道は片山神社前の右手からつづら折れの急坂が始まります。
つづら折れの最初の坂道には「鈴鹿流薙刀術発生之地」や1700年から1800年初めの延享,文化,享保年間の灯篭が立っていました。 灯篭坂とも言われている様です。
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つづら折れの急坂には石畳の坂や階段もありました。 下右写真のコンクリート造りの部分は国道1号線の為の施設で、旧東海道は国道下の階段を上ります。
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 片山神社から10分程度で国道1号線の下をくぐり階段を上ると国道と同じ高さの広場に出ます。 
更に下写真の黄色い矢印の所から峠の頂上に向かいます。
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上写真の所から登り始めて2・3分で「馬の水のみ鉢」というものがありました。
昔街道を上り下りする馬の為の鉢で、コンクリート製でなく時代考証して欲しかった。
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 馬の水のみ鉢から3・4分歩いた所に、片山神社からつづら折れが始まって初めて遠くの山々が見える所に出ました。 絶景でした。
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馬の水のみ鉢から10分弱歩いた所で、「鈴鹿峠の頂上」で「鏡岩」との分岐点に出ました。

 一昨年「腰の脊柱管狭窄症」が再発し、その後「強度な狭窄症による痛み」は回復したものの腰や股関節の痛みが発生しており、体力の低下と併せ考えると鈴鹿峠を越えられるか心配でならなかった。 それが、それほど頑張らずに峠の頂上に着いてしまった様です!!!

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 で、余力があった事も有り、田村神社跡の石碑の前を通って鏡岩を見に行きました。

 鏡岩は、三重県の指定天然記念物となっており、岩石の種類は珪岩。
断層が生じる際に強大な摩擦力で研磨され、岩面の一部が青黒色の光沢を帯びた平らな鏡肌(スリッケンサイド)となったとの事。 鏡岩の平らな鏡肌面は縦2.3m、横2m。

 下左写真奥の岩が鏡岩です。 下右写真の岩の中央部分が磨かれた様に平らになっており、これが鏡岩の由来だと思います。
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鏡岩からは国道1号線や向いの山々が見え、絶景でした。 
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 鈴鹿峠の頂上で鏡岩との分岐点迄戻り、猪の豚コレラ菌が拡散しない様にと置かれていた石灰の箱を開け、靴に付け消毒しました。 
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 で、峠の頂上で鏡岩との分岐点から1・2分程歩くと三重県(伊勢の国)と滋賀県(近江の国)の県境でした。
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 三重県との県境から3・4分歩くと小さな公園にひときわ大きな常夜灯が有りました。
「万人講常夜燈」で、江戸時代に金毘羅参りの講中が道中の安全を祈願して建立したものだそうです。 高さが5.44mの自然石で、地元の山中村をはじめ、坂下宿や甲賀谷の人々の奉仕によって出来上がったと伝えられています。
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鈴鹿峠を越え滋賀県に入りましたし、レポートが長くなりましたので中断し、続きは近日中にアップします。


 三重県では、
 愛知県の宮宿から三重県の桑名宿への「七里の渡しの船」が台風で通常10月の予定が翌年3月に延期されたのを始め、石薬師宿では大雪にあう等、毎回天候不順により予定を変更した。
 実は今回も天候を見ながら計画の延期に延期を繰り返し、ようやく10月22日出発の予定でホテルを確保しましたが大雨の予報で23日の出発となり、ホテルは割高で、しかも24日は坂下宿迄タクシーで行く羽目になりました。

 三重県の方々には大変お世話になりましたが、私にとっては大変相性の悪い県の様で、今回無事に滋賀県入り出来てほっとしています。


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東海道五十三次 関宿から坂下宿 その2  [ 東海道五十三次]

 先日、東海道五十三次の内「関宿」から「坂下宿」を歩いて来ました。

 前回のブログで、関宿の地蔵院から坂下郵便局迄をレポートしました。
 今回は「鈴鹿馬子唄会館」や「鈴鹿峠自然の家」等のある公園地区から坂下宿本陣や法安寺迄をレポートします。


 坂下郵便局から400m程歩くと、小さ目ではあるが本格的な形をした「天文台」が見えてきた。 ここは亀山市の「市立の天文台 童夢(ドーム)」で「鈴鹿峠自然の家」や「鈴鹿馬子唄会館」等のある公園です。
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天文台の下がY字路になっており、右側の道路には下写真の様に木柱が立っており東海道五十三次の宿場名が京都まで書かれていました。 
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 で、Y字路の右側に入って行くとドーム型の「鈴鹿馬子唄会館」が有り、立ち寄り内部を見学させて頂くと共にお水を頂きました。
「私の記憶では、「関の地蔵院」から「坂下宿終点の前田商店」迄飲み物の売店や自動販売機が有りません!!! これから歩く方は関の地蔵院付近で飲み物の点検を!!!

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 馬子唄会館の向いには「鈴鹿峠自然の家」がありました。
ここは昭和13年に建てられた「坂下尋常高等小学校」で昭和54年3月に廃校となり、坂下公民館等に活用され、現在は青少年の研修施設「鈴鹿峠自然の家」として活用されています。
平成11年国の登録有形文化財(建造物)に登録されています。
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 馬子唄会館から下写真の様な静かな山間部を600m強歩くと「坂下宿」の集落に着きます。

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 坂下宿は、
 古くは1340年頃からお伊勢参りの書物等に記されており、又、東海道の西の難所「鈴鹿峠越え」の登り口だった為、室町時代には既に宿場として機能していた様です。
 しかし、慶安3年(1650年)の大洪水で現在の片山神社下にあった宿は壊滅、翌年1km程下った現在の位置に移転復興されたとの事。 江戸時代後半には下記3軒の本陣と下記の脇本陣1軒、そして48軒の旅籠が有る等東海道でも有数の宿場だった様です。
 明治23年(1890年)関西鉄道が開通し旅人の往来は激減し、今は過疎化が激しい地区となってしまいました。


 下写真のお茶畑には、その昔大変栄えた本陣が3軒並んでいました。
(橙色の矢印が本陣跡の石碑)
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 上写真橙色矢印の本陣は、奥から「松屋本陣」「大竹屋本陣」「梅屋本陣」です。
尚、松屋本陣は「坂下集会所」の所で、コミニティバスの終点「伊勢坂下」バス停です。

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 で、右側の法安寺の先には「小竹屋脇本陣跡」の石碑があり、更に350m程進むと右側に祠があり中にはお地蔵さん。  鈴鹿峠を安全に通れる様にと願い古人が祀られたのだろう。
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 朝6時20分頃に家を出て、11時半頃関西本線の関駅に到着し、歩き始めて約7km、寄り道の多い私でしたが15時頃に坂下宿に到着。 関駅に戻るコミニティバスの最終は午後16時5分発だった為ゆっくりと法安寺さんを見学させて頂きました。

 坂下宿の「法安寺」は永正2年(1505年)に釈迦牟尼を本尊をとして開創されました。
法安寺の山門は細工瓦が見事です。
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正面が本殿、右が庫裡(クリ)
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下写真の庫裡の玄関は旧松屋本陣の玄関を移築したもの との事。
 明治15年4月坂下小学校改築の際に松屋本陣の玄関を小学校校舎の玄関に移築、その後昭和13年4月小学校が沓掛地区に移転しましたが、保全されてきた。 文化財として希少価値があるとの事で法安寺の庫裡の玄関にと昭和35年10月移築されました。
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 法安寺から歩く事550m、岩屋十一面観世音菩薩に着きます。
岩屋観音は、法安寺の境外地にあり、元禄時代に阿弥陀如来・十一面観音・延命地蔵の石像を祀られたとの事。 写真右側の黒い扉がお堂への入り口です。
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 お堂は閉じられ、石像は拝観できなかった。
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 15時50分頃に坂下集会所のバス停に戻り、コミニティバスの最終16時5分に乗って関駅に戻り、亀山駅近くの宿に入りました。


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