東海道五十三次 大津宿から京都三条大橋 その2(山科から三条大橋) [ 東海道五十三次]
先日、3ヶ月ぶりに東海道五十三次を歩いてきました。
そして今回は京都の三条大橋に到達しました。
2009年12月15日 東京の日本橋を出発し、
先日2024年3月11日 京都の三条大橋に到着しました。
14年と3ケ月かかりましたが旧東海道五十三次を完歩しました。
東海道五十三次を完歩する迄には本当に色々な事がありました。
アメリカに赴任していた2002年頃に左顎の下に直径1cm位のしこりが出来、検査の結果悪性ではないとの事でした。 しかし、帰国後の 2008年初め頃から徐々に大きくなり、2009年5月にはゴルフボール大にまで成長し入院・切除しました。 切除した部分の検査結果は「顎下線がん」との事。 切除の為の入院や放射線治療で体力は減退、駅の階段も踊り場で休息し登る程になってしまいました。
顎下線がんの闘病記は下記ブログのカテゴリーでレポートしていますが、最初の記事は https://hisashi1946.blog.ss-blog.jp/2009-05-31 で、この記事から見ると良いかも。
https://hisashi1946.blog.ss-blog.jp/archive/c2300593372-1
そこで低下した体力の回復度合いを見る為にもと「東海道五十三次」を歩く事にし、2009年12月15日東京日本橋から出発。 当初順調だったが2011年2月に箱根の山を登った所で椎間板ヘルニアになり2年半も中断、更には2017年2月にも愛知県の池鯉鮒宿(知立宿)に到着後椎間板ヘルニアが再発約1年間中断しました。
更に新型コロナが広がり2020年2月滋賀県の水口宿に到着後2年9ヶ月中断。 2022年9月に再開、そして今回2024年3月 78歳と1日目にやっと三条大橋に到着、完歩となりました。
何はともあれ、今回の出発地である京都市の山科駅からの旅行記です。
3月10日に家を出て京都御所を見学、翌11日9時頃ホテルを出てJR山科駅に9時20分頃に到着、歩き始めました。
山科駅前から旧東海道を歩き350m、左側に「愛宕常夜燈」と言う表示のスリムな灯篭を発見。
更に進み駅前から500m、「五条分かれ道標」と言う近代的な金属の道標と、宝永4年(1707年)11月建立の古い道標を発見。 古い道標には「右ハ 三条通」とあり旧東海道の事。もう片面には「左ハ 五条橋 ひがしにし六条大佛 今ぐまきよ水 道」と書いてあり、ここから牛若丸の五条大橋に行く事が出来る様です。
更に道なりに駅前から900m進むと県道143号線との交差点に出た。 ここを右折し143号線に沿って進み、JRのガードをくぐり、ガードから約100m右側「天智天皇 山科陵」の入り口(下写真)に着いた。
この天智天皇 山科陵の向かい側に、下写真の様に「旧東海道」の道路標識が2か所に掲示されていた。 で、標識に沿って左折し細い路地に入って行きます。
路地は比較的狭い物の、143号線から分かれ500m位の所の水路迄はほぼ平坦な道が続き、その後急な坂となり「日岡峠」越えへと続きます。 下写真は143号線から300m位のまだ平坦な道の所です。
急坂の途中、143号線から700m位の所に「亀の水不動尊」がありました。
以前は道路からでも本尊の所(黄矢印)を見る事が出来た様ですが、今は衝立が有り覗く事が出来ません。
この亀の水不動尊を過ぎ少し上るとほぼ平坦な道になります。 また、143号線から分かれ旧街道に入ったあたりからはきちんと手入れをされ着飾ったお地蔵さんが多数ありました。
亀の水不動尊 よく手入れされ着飾ったお地蔵さん
で、急坂を上りきり、143号線と別れてから1.2km位で再び143号線を眼下に見る事だ出来ました。 更には1.4kmで143号線と合流、その先には「日岡峠」の石碑やモニュメントのある広場に出ました。
下右写真の石碑(下左写真の空色矢印の所)にはモニュメントの出来た由来や地下鉄東西線開通時の状況等が説明されていました。(写真をクリックすると拡大表示されます)
尚、143号線を眼下に見えた所には旧東海道の道標「旧東海道道標 (日ノ岡の峠道)」があった様ですが見落としてしまいました。
日岡峠のモニュメント モニュメントの出来た由来
143号線に合流してからはやや急な下り坂で、日岡峠のモニュメントから約300m「粟田口刑場跡」に到着しました。
下左写真は「九条山」交差点で、下右の写真は左写真矢印の所を見た写真です。 黄色矢印が粟田口刑場跡等の説明掲示板です。
粟田口刑場跡の掲示板 ; この掲示板には大変多くの事が書かれています。
この地は「日岡峠」に次ぐ高い所で「粟田口峠」と言われていた。 文化年間に車道に車石が舗装され、幕府最後の慶応3年(1867)には急峻な日岡峠を避け新道が作られた結果粟田口峠が最高所となり明治以降はこの粟田口峠が日岡峠と言われる様になった。 その後明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)や現代にいたる開発、昭和6~8年の京津国道改良工事等で景観は一変したとの事。 また、ここは都と郊外との境で江戸時代には公開処刑場「粟田口(日岡)刑場」として磔(はりつけ)・獄門・火刑も行われ、山裾には供養塔も建てられていた。
等が書かれています。クリックすると拡大しますので時間のある方はじっくり読んでください。
九条山の交差点から約300mで京都市蹴上浄水場の坂の上の門に到着(下左写真の矢印の所)、更に坂を下ると浄水場の正門と思われる門と地下鉄の「蹴上駅」に到着(下右写真で空色矢印が地下鉄蹴上駅の入り口)。
蹴上浄水場は広くなんと坂上の門から地下鉄入り口の所の門迄450m(グーグルによる)。
で、私は地下鉄の「蹴上駅」の地下道を通って「ねじりまんぽ」の蹴上トンネルをくぐって、南禅寺に向かう事に。
ねじりまんぽ(蹴上トンネル)
台車に乗った船が行きかう蹴上インクラインの重さに耐える様内壁のレンガが斜めに(空色矢印)敷かれています。 「まんぽ」はトンネルを意味する古い言葉だそうです。
蹴上インクラインの解説は下記を参照願います。
https://biwakososui.city.kyoto.lg.jp/place/detail/23
旧東海道から分かれ、ねじりまんぽをくぐって350m南禅寺の参道に到着。 本来「旧東海道歩き」なので忠実に街道を歩くべきですが、私はこの掟を破り南禅寺に向かいます。 掟を破ってまでも南禅寺に向かう目的は境内にある「琵琶湖疏水」の水道橋を見る為で、今回京都に来た最大の目的は「三条大橋に到着し東海道五十三次を完歩する事」ですが、「南禅寺の水道橋を見る事」はそれと同じ位大事な目的でした。
南禅寺の大きな三門 法堂も大きかった
そして目的の「琵琶湖疏水の水道橋」
琵琶湖から京都市内に向けて引かれた水路で、滋賀県大津市で取水され南禅寺横を通って京都市東山区蹴上迄の区間。 疏水の工事は1885年に始まり1889年に完成しました。
琵琶湖での取水場の様子は下記のブログで掲載しています。
https://hisashi1946.blog.ss-blog.jp/2023-12-31
南禅寺を出て、「南禅寺前」交差点から見た蹴上インクライン(鉄道)
南禅寺の水道橋を見学し、南禅寺の参道から料理屋さん「瓢亭」の前を直角に曲がり東海道(三条通り)に復帰しました。
東海道歩きは、地下鉄蹴上駅から三条大橋に向かって約300mスキップしたことになります。
お天道様許して!!!
で、旧東海道に復帰三条通りを三条大橋に向かって進みます。 この通りには古い建物と近代的にデザインされた建物が混在しており、以前何処かのテレビ局で特集されていました。
東海道(三条通り)に復帰し1.3km(地下鉄蹴上駅から三条通で1.6kmに相当)三条大橋の交差点に到着です。
下の浮世絵は歌川広重の京都(三条大橋)です。
で、記念撮影!
そして橋の下をのぞき見。
更に三条大橋を渡り「弥次さん喜多さん」にご挨拶し、記念写真を撮らせて頂きました。
で、橋全体をゆっくり見学
(普通この様な歴史のある所は"いかにも歴史ある所"を感じさせ様とするデザインが多いのですが、予想以上にあっさりした洒落たデザインでした。)
そして、鴨川も上流側(下写真左)と下流側(下写真右)を見て、
橋の袂のコーヒー店でゆっくり橋を眺めながらコーヒーとおやつ的な軽食を取り、今回は非常に疲れたので(だよね~ almost 80 years oldだもん)ので 早めにホテルに戻り昼寝休息でした。
コーヒー店からの三条大橋
終わってしまった。 私の東海道五十三次!!!
で、今回の反省は、もう少し準備運動をして体力をつけて行くべきだった!
そして、京都市内の琵琶湖疏水はもっと充分な予習が必要だった!
(友人との飲み会で「疏水の上に登り水の流れを見る事が出来る」との事。知らなかった!)
多分南禅寺周辺の琵琶湖疏水と関連施設はもう一度見学する事になるかも!
その時は「150円の自炊湯豆腐で充分」ではなく南禅寺門前のお高い湯豆腐も食べようか!
次回「東海道五十三次のハイライト編」を書けるかなァ~~~???