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東海道五十三次 坂下宿から土山宿 その2 滋賀県歩き始め [ 東海道五十三次]

 
 10月27日の日曜日、東海道53次の内亀山市の坂下宿から鈴鹿峠を越えて滋賀県甲賀市の土山宿迄を歩いて来ました。 
その時の「鈴鹿峠越え」の様子は下記のブログを参照ください。
   https://hisashi1946.blog.ss-blog.jp/2019-11-02
(クラシックカーショー等があり、レポートが遅れました。)


 今回は、上記ブログの最後にレポートしました「万人講常夜燈」からレポートを始めます。
(万人講常夜燈は金毘羅参りの道中の安全を祈願して、江戸時代に中山,坂下,甲賀谷の人達が 建立した常夜燈です。)
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万人講常夜燈を過ぎると国道1号線に合流し、暫く国道沿いを緩やかに下って行き、万人講常夜燈から400mで初めて民家に到達しました。
10月末、山中川の渓谷は紅葉も始まり甲賀の里にも秋が近づいていました。
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 万人講常夜燈から約2kmの十楽寺(下左)の前を通過。
十楽寺付近からは前方に「新名神高速道路」が見え始め、十楽寺から約350m歩くと小さな公園と休息所が有り、そこを斜め右の路地に入り約200m歩いた右には地蔵堂も有りました。
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 地蔵堂から500m強歩くと新名神高速道の下に「第2名神滋賀県起工の地」の記念碑があり、向かいには下写真の「鈴鹿馬子唄を表現した馬と人の石像」と「一里塚の説明板」も有りました。(この公園の一番手前に山中一里塚の石柱が有ったはずですが、私は見逃した。)
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 本来、新名神下の一里塚から国道を渡り細い路地を上って行くのですが、直ぐにコンクリート工場に突き当たりUターン風に国道に戻されるので、続けて国道を歩く事に。

新名神の下から700m程歩き「猪鼻」の交差点をUターン風に右に曲がり国道から離れます。
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 約180m進み左折して更に約200m進むと右側に「旅籠 中屋」さん。
ご近所の方によると写真のお宅が昔から続いている「中屋」さんだそうです。
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「中屋」さんから180m位道なりに歩き急な坂を上ると、再度国道1号線に出ます。
国道に出た後、国道を450m進むと右側にちょっと汚れた「蟹が坂」の道案内板があり、案内板の通り右側の東海道(赤い道)を進みます。
(今回、歩き始めた時に出会った蟹さんはここ蟹が坂から私を迎えに来たのでしょうか?)
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 道案内版の所から東海道を約600m歩くと「蟹坂古戦場跡」の石碑等が有りました。

 天文11年(1542年)9月、伊勢の国司北畠具教が甲賀に侵入しようと神戸丹後守と飯高三河守に命じ、鈴鹿を越え山中城を攻めさせた。 山中城主山中丹後守秀国は直ちに迎え打ち北畠軍を敗走させた。 更に北畠軍は伊予の軍勢を加え山中城を攻略しようとしたが、山中城の秀国は六角定頼に援軍を乞い、再度山中城の秀国勢が勝利を収めた。

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 蟹坂古戦場跡から道なりに真直ぐ300m進むと「海道橋」と言う田村川に架かる橋に出ました。 海道橋は安永4年(1775年)にかけられた「田村永代板橋」を復元した橋です。
往時の橋は幅二間一尺5寸(4.1m),長さ二十間三尺(37.3m)で低い欄干が付いていたとの事。 
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 田村川は歌川広重の土山宿の絵「春の雨」の場所でもあります。 広重の絵にも低い欄干が描かれています。 下右写真が現在の田村川で現在も水は豊でした。
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 田村川を過ぎ、田村神社の杉やヒノキの木立の中を200m程歩くと「立札場」で、左に行くと東海道、右に行くと鳥居をくぐり田村神社です。
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 で、私は鳥居をくぐり、田村神社にお参りして行こうと。
田村神社は弘仁3年(812年)の創建で、坂上田村麻呂公を主祭神とし、嵯峨天皇や倭姫命(やまとひめのみこと)をも祀っています。
坂上田村麻呂公は平安時代の武人で延暦16年(797年)には桓武天皇から征夷大将軍に任じられています。 下写真左が本殿への参道,下写真右が本殿です。
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 田村神社の参道を真直ぐに進み国道1号線の横断歩道橋を渡った所で飴屋さんがあり、購入しました。 飴は昔からの作り方で、もち米と麦で作っておられるとの事。
(自宅に帰り食べた結果は、確かに甘いのですが稲わらのにおいがして、現代の美味しさに慣らされている私には美味しいとは言い難い物でした。 多分これでも江戸時代は本当に甘く美味しい高価なものだったのでしょう。)
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 前日家を出る時は「鈴鹿峠越え」で体力を使い果たし、ここ田村神社からバスに乗り近江鉄道の水口駅に出ようと思っていましたが、予想外に「鈴鹿峠越え」がきつくなく、バスの時刻表を確認し、土山宿の本陣まで行こうと更に歩く事に!


 国道1号線を歩道橋で横切って、右に道の駅「道の駅 あいの土山」を見ながら100m、土山宿の説明板を始め石碑等があり、土山宿の入り口に着きました。
(江戸時代の土山宿の入り口はここから750mも先の来見橋(くるみばし)だったらしいのですが、ここから商家や旅籠等が続いていた様で、実質土山宿の入り口です。)
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 上記土山宿の入り口から400m左の所にはお地蔵さんの祠が有り、又、「お六櫛の三日月屋」さんの表示も幾つかありました。
 お六櫛は目の細かい丁寧な作りで有名だった様で、その始まりは「1669年に信濃の旅人が伊勢参りの後京見物に行く途中で病に倒れ、土山の生里野の民家で介抱し助けられた。 その旅人がお礼にと「お六櫛」の製法を伝授すべく再度土山を訪れた」という事の様です。
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 お地蔵さんから300mで、地域の方が運営する「扇屋(櫛や扇を販売していた)伝承文化館」が有り内部を見学でき、無料休息所になっていました。
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 更に100m程歩くと「一里塚」が有りました。 実は約400m手前のお地蔵さんの所に下右写真の石碑があり、左江戸に150里,右京に15里とありました。
(既に日本橋から600km歩き、後60kmで京都。こんなに歩いた「俺ってすごい!!」と自分に感心。)
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で、上記扇屋さんの休息所から約450km、「来見橋」に到着です。 ここ迄に多くの商家や旅籠跡がありましたが、ここが江戸時代の土山宿の入り口です。
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 来見橋から約300m歩いた左側に「旅籠 井筒屋跡」そして右側の酒屋さんの2軒先が「旅籠 平野屋跡」がありました。 その斜向かいはカフェとそばの「うかい屋」さんです。

 文豪森 鴎外の祖父で「森 白仙」が文久元年(1861)に、ここ旅籠 井筒屋で病死した。 森 白仙は代々津和野藩主亀山家の典医を仕えた家柄です。 
 旅籠 平野屋さんは、森 鴎外が明治33(1900年)年3月2日祖父森 白仙の墓参の為土山を訪れ」1泊した旅籠です。 近くの河原の墓地に埋葬された白仙の墓が荒れ果てており、見かねて南土山の常明寺に埋葬。 後に白仙の妻と娘ミネ(鴎外の母)と共にこの寺に葬られたが、更に昭和28年3人の墓碑は津和野の永明寺に移葬された。

下写真左は井筒屋跡で、右が平野屋跡の石碑です。
(井筒屋さんの写真は車が駐車しており撮る事が出来ず、下の先人のページの写真を借用しました。 この方は地図等もきちんと整理したページになっております。
http://nonbiritabi.edo-jidai.com/toukaidou/toukaido_doucyuuki_index.html

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 カフェとそばのうかい屋さんの1軒先に「二階屋本陣跡」が有りました。
 代々忠左衛門と名乗り、史料上の初見は延宝8年(1680年)で以降本陣を務めたが、幕末には衰微し西側の大旅籠の大黒屋が代わりに本陣を務めた。 伝馬館の方の話によると建物は江戸時代のままだが大幅に改築しているとの事。
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 二階屋本陣のはす向かいの伝馬館入り口の所に「問屋場跡」が有りました。
問屋場と言うのは公用通行の荷物や人馬の中継、宿泊施設の手配等を行う場所です。
尚、ここの問屋場は明治になり廃止され、その施設は成道学校として利用されました。
又、下右写真のお宅は問屋場跡から3軒先右側の家で「問屋宅跡」と表示されていました。

 土山宿には「問屋場跡」と「問屋宅跡」と二つの石柱が有り、問屋宅跡の説明板には「土山宿には東海道を挟んで「北土山村」と「南土山村」の二村が並立する二つの行政組織が存在した。 土山宿の問屋はこの両村を纏めて宿駅業務を運営」と説明されていました。

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 そして、「問屋宅跡」の隣が「土山家本陣跡」です。
土山家本陣は寛永11年(1634年)3代将軍家光が上洛する際に設けられた本陣です。
 土山家の初代は甲賀武士 土山鹿之助で、3代目喜左衛門の時に初めて本陣職を務め、参勤交代が無くなる明治3年(1870年)10代目喜左衛門の時に本陣の役目を終えた」との事。 
 又、伝馬館の方によると本陣をしていた時代の貴重な資料が多数保管されており、写真の建物は昭和初期に建てた家ですが、本陣時代の家と同じに建てたそうで、見学は予約制との事。
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 最後に土山宿の「東海道 伝馬館」に寄りましたが水口駅まで行くバスの時間もあり、短時間の滞在となりました。
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 三重県では毎回の様に雨や雪に合い、予定変更の連続でした。
 今回やっとの事相性の悪かった三重県を脱出する事が出来ました。

 滋賀県はどうなるのだろうか??? 多分好天に恵まれ順調に進むといいな!!!


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