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東海道五十三次 金谷宿から日坂宿 その1 (菊川の里迄)  [ 東海道五十三次]

        
 先日、旧東海道五十三次のうちの 金谷宿から日坂宿を経由して掛川宿迄を歩いてきました。
何時もの事ながら旧東海道の記事を書く時は写真が多くなりすぎ、書く事も比較的多く1つの宿場で二回位の記事になってしまいます。
 で、今回歩いたのは2つの宿場と掛川城で、5回位の記事に相当しますが、何とかコツコツと記事にして行きます。


 で、朝10時半頃に前回の終点だった金谷駅に3ヶ月ぶりに到着。
 前回の記事   http://hisashi1946.blog.so-net.ne.jp/2015-07-02
           http://hisashi1946.blog.so-net.ne.jp/2015-07-13

 旧東海道はここの所ズーっと平地でしたが、今回は電車を降り、ホームで西側を見ると電車はトンネルの中へ。
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 そしてトンネルの上、私が歩く方向を見ると急な峠になっていました。 なんとなく端からしんどさが押し寄せてくるような!!!
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 歩き始めて直ぐの金谷駅裏側に、金谷宿の西側の出入り口としての役目を担っていた 「金谷大橋」跡がありました。
 現在は 「不動橋」 と呼ばれているが昔は 「西入口土橋」と呼ばれ、昔は長さ約10m,幅4.5m,橋げたは3本立て4組と立派な大きな橋だった様です。 現在の小さな川の流れからはとても想像できません。
 又、土橋と言うのは橋げたの上に丸太を組み、その上に小枝等を敷き更に土を敷き固めて造られていた物です。 で、橋は3年に1度代官所の負担で修理や架け替えが行われていました。

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 駅を出てあっちを見たりこっちを見たりとキョロキョロしながら、25分もかけて473号線に出て金谷宿を振返ってみました。 黄色い矢印の先が金谷駅。

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 そして、更に フーフー ハァーハァー 言いながら頑張って 「金谷の石畳」 の入口に到着しました。
実は2012年8月家族旅行で、大井川鉄道のSLに乗る前にここの 「石畳茶屋」 で昼食を取りました。 で、その時 「何時、東海道53次でここにこられるかなァ~」 なんて考えた事を思い出しました。
下記は大井川鉄道のSLが中心ですが、その時の記事です。 
http://hisashi1946.blog.so-net.ne.jp/2012-08-23

 金谷の石畳は、近年まで江戸時代に造られた物が30m程残っており、他はコンクリート等で舗装されてしまいました。 そこで、平成3年町民約600名が参加して430mを復活させました。
 で、現在、往時の石畳をしのぶ事の出来るのはこの 「金谷坂」 「箱根峠」 と「中山道の十曲峠」 の3ヶ所だけとの事。 (ここで言う「金谷坂」には直ぐ先の菊川の石畳も含むのかなァ~?)

下記が箱根の石畳を歩いた時の記事で、石畳の構造等も書いていました。 5年も前の事です。
 http://hisashi1946.blog.so-net.ne.jp/2010-11-18

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 登り始めるとすぐに杉木立に覆われ、写真では明るく見えますが、実際は箱根と同様に「昼なお暗い石畳」 でした。
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 石畳の中ほどにはめずらしい六角形の 「すべらず地蔵尊」 がありました。 このお地蔵さんは、ここの石畳がすべらない事から地元の方々が建てられたそうです。 中には本当に可愛いお地蔵様二体が祀られていました。 確かにここの急坂はコンクリートよりはすべりませんでしたが、石畳の為歩幅が定まらず疲れました。

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 で、何とか石畳を上り切り、茶畑を横に見ながら平坦な舗装道を500m程歩くと国指定の史跡 「諏訪原城跡」 に出ました。
 この諏訪原城は 1573年、武田勝頼が馬場美濃守信房、武田信豊に命じて造られたお城だそうで、場内に「諏訪大明神」を祀った事から諏訪原城となったと言われているそうです。
 その後、1575年には徳川家康によって滅ぼされ 「牧野城(牧野原城)」 と改名され、武田方攻略の城として活用。 1582年に武田氏が滅亡すると必要性が無くなり1590年に廃城になったそうです。

 武田方と徳川方の激突した最前線だった様で、まさに「つわものどもの夢の跡」だったのでしょう。
台風の大雨の後だった事もあり、山城とは言え幾つものお堀跡には水がたまっていました。

諏訪原城の詳細は下記ページを参照願います。
http://www.sengoku-shizuoka.com/castle/2103009/point.php

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 城跡の脇の道路(県道234号線)を横切ると今度は下り坂の 「菊川の石畳」 です。
 菊川の石畳は平成12年の発掘調査で、江戸時代後期と確認され、箱根の石畳に次ぐ2例目だそうです。 (金谷の石畳は30m残っていたとの事でしたが? まァ 細かい事は良いか。) 

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 ここの石畳にはほぼ等間隔で石(中央の濃い緑矢印の先)が置かれておりました。 あまりにも急な坂の為、旅人が休息する「腰かけ石かなァ~」等と私がかってに推測していました。

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 この急坂、「登り坂でなくて良かったァ~」等と思いながら坂を下って行くと 間の宿 「菊川の里」 が見えてきました。 まさに「さと(里)」と言うにふさわしい茶畑の山に囲まれた街でした。
間の宿の説明は下記を参照願います。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E3%81%AE%E5%AE%BF

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 お茶の製造元等のある 「菊川の里」 の街並を見ながら歩き、街を出た途端待ち受けていたのは再度の急坂です。
上写真の尾根(点々と続く黄色い矢印)にある道を最上部まで登る坂道の入口で、階段を登り、斜め右上に登って行きます。

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 で、ふゥー ふゥー はァー はァー 言いながら、はるか昔 山登りをした時の 「ゆっくり、小さめの歩幅で一定間隔に」 の心境で、はるかかなたの尾根の頂上目指して、

 立ち止まっては、後ろを振り返りどの位歩いたか確認し、周りの景色を見て休憩。
本当に良い景色に勇気ずけられて、足取りも軽くとはいかなくとも歩き続けられました!

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 掛川市の佐夜鹿(さよしか)に入ってからは、旧東海道の道の両側に芭蕉等有名歌人・俳人の歌が石碑に刻まれていました。 その数多分数十基。
島田市の金谷の人達は石畳を復活し、掛川市は石碑にと、両市共に旧道に力が入っています。

石碑と解説板                       解説板
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 で、何とかかんとか尾根を登り切り、「小夜(さよ)の夜泣き石」のお寺 「久延寺」 に辿り着きました。

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 で、長くなりますのでこの辺で一区切りつけ、ブログをアップします。
次回は 「金谷から日坂 その2 (小夜の夜泣き石)」 としてアップする予定です。


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駅員3

思わず自分もふーふー言いながら写真を拝見していました。
熱海はよろしくお願いします(^_-)/
by 駅員3 (2015-09-26 09:46) 

kotobuki1946

駅員3さん
熱海は参加の方向で修理屋さんと調整しています。
上手くいくと良いのですが、心配でなりません。
by kotobuki1946 (2015-09-27 18:10) 

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