東海道五十三次 金谷宿から日坂宿その2 (小夜の夜泣石 他) [ 東海道五十三次]
東海道五十三次の島田市の金谷宿から掛川宿迄歩き、前回はその内の金谷宿から掛川市佐夜鹿の 「久延寺」 に到着した事を書きましたが、今回は 久延寺から日坂宿(にっさかじゅく)迄をレポートします。
この間の最大の興味は 「小夜の中山夜泣石」だった。
夜泣石は広重の五十三次の浮世絵にも下中央に描かれています。
掛川市佐夜鹿の 「久延寺」 にはその 「小夜の中山夜泣石」 との説明の石が祀られています。
下写真は久延寺本堂で、その下は久延寺の 「夜泣石」 と言われる石(黄緑の先)です。
で、 「小夜の中山夜泣石」 と言う 悲しい伝説も久延寺の石の脇に掲示されていました。
ここ迄記すとあたかも久延寺の 「夜泣石」は本物の様ですが、
実は 「本物の夜泣石」 は昭和11年東京で見世物として興行をしたが失敗し、持ち帰る事が出来ず焼津に置き去りになったそうで、それを地元の人々が現在の国道1号線小夜の中山トンネルの手前に運んだのだそうです。
で、ウィキペディアではバッサリ 「久延寺の石は本物でない」 と言いきっています。
また別のネット解説では「久延寺の夜泣石は妊婦お石を弔う供養塔」 と説明されていました。
「2つの夜泣石」にもやもやしながらも更に歩き、久延寺から5分程の所に 「佐夜鹿(小夜の中山)の一里塚」 がありました。
前回の記事の有名歌人の歌の中に 「佐夜(さや)の中山」 とあり、 夜泣石は 「小夜(さよ)の中山夜泣石」とあり、しかもここの地名は 「佐夜鹿(さよしか)」 と似たような言い方ですが色々な言い方があり 「どれが正しいの?」 と思っていました。
で、この一里塚でなんとなく地名の理解ができた様な気がしました。
「小夜(さよ)」 と 「佐夜(さよ,さや)」 は共にこの辺りの昔からの地域名で、その時,その人により使い分けられている様で、今は 「佐夜鹿」 となっている。 また、小夜の中山はこの近辺の峠を指している様です。
一里塚から10分弱歩いた所に兜塚があり、そのすぐ近くのお茶農家のご夫婦に「飲み物の自動販売機はどこですか?」と伺った所、奥さんが 「近くには無く、時間が無いのでうちのお茶は出せないが、防腐剤が入っていて美味しくないかも」 とペットボトルのお茶を頂いてしまいました。
私が、お礼を言いながら、南西方向のはるかかなたの青い部分を指して 「海ですよね」 と言うと、ご主人が 「そう、遠州灘」 続けて 「浜松も見えるよ。」 と家の横に案内され 「あれが浜松のハーモニカ形の建物です」 との事。
やったァーーー やったァーーー やりました!!! 浜松です!!!!!
ついに浜松が見える位置まで来ました。 下写真の杉林の向こうがハーモニカ形の建物(アクトタワー?)だそうです。
その後、白山神社や馬頭観音を経て更に進み坂を降ると 「夜泣石」 があったと言われる所に来ました。 ここには石碑と簡単な説明板がありました。
最初に書いた様に、「夜泣石」は2つ存在し、しかも、広重の浮世絵では街道の坂の下で道の真中にあった様に描かれています。 その場所がこことの事で、久延寺から旧東海道を西に約30分強来た所です。 またこの石碑から50m強西に広重の浮世絵を描いた石碑もありました。
本物と言われる 「夜泣石」をここに置く事は出来ないのでしょうかねェ~~~~
更に10分強歩き 「二の曲がり,沓掛」 の急な下り坂をくだると 「日坂宿」 の街並をのぞむ所に出ました。
5分程で、秋葉灯のある広場に出て、やっとの事で 「日坂宿 本陣跡」の門に到着しました。
本陣跡の隣の家の椅子に座り、残りのおにぎりを食べ、30分以上も休み、少なくとも「日坂宿を出た後バスに乗ろうとゆっくり歩き始めました。
次回のブログは、多分クラシックカーショーの記事になると思います。 その後に又 「日坂宿から掛川宿」 を書く予定です。
何時もつたないブログをお読み頂きありがとうございます。
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ヒストリカGP参加、ご苦労様でした。
by caterham_7 (2015-10-04 11:01)
caterham_7さん
どういたしまして。 今回は参加が危ぶまれましたが何とか間に合いました。
by kotobuki1946 (2015-10-04 15:43)