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東海道五十三次,島田宿から金谷宿 「大井川の渡し」について [ 東海道五十三次]

 
 先日、静岡県のJR六合駅から島田宿迄歩き、引き続き金谷宿をめざし歩きました。

 島田宿から金谷宿迄は距離は短いものの中心に大井川があり、昔の人達にとっては、
 ”” 箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川 ””
 と言われる程大井川の渡しは大変だった様です。

広重の 「大井川駿岸」(島田宿側の渡しの風景)
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 渡し場の街の再現風景 (道路幅は昔のままの幅だそうです。)
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 そんな事から、大井川の渡しについては時間をかけてゆっくり見学させて頂きました。

 大井川の川越えは、江戸時代初期(1601年頃)は比較的自由であったが、元禄9年(1696年)に川越賃銭を定め、川の両岸に1人づつ2人の川庄屋を任命,役所を置いて幕府監視の川越制度が確立した。 川越えをする為の人足の数も、川の両岸にそれぞれ350人と定められていたが,交通量が次第に増え幕末には約650人にも達しました。
 又、川の渡し範囲は旧東海道の道筋から上下26丁(2836m)と決められており、この範囲を超えて渡しをすると厳罰に処せられたようです。

 で、川会所と言う役所で川越えの渡しを管理していました。
 川会所には川庄屋のもと年行事・小頭・口取・待川越等の役人がいて、日々の川の深さによる渡しの賃銭を決め、公家・大名から庶民までの通行順序や荷物の渡し配分を等行い、更には規定範囲外の川越えをも監視していました。

 川会所
blogDSCN6349.jpg

川会所内部の川庄屋と年行事
blogDSCN6353.jpg


 で、川越えの方法は、
   肩車越し --- 1人の人足の肩に乗って渡る方法で、増水時は補助役1人が付いた。
   蓮台渡し --- 数種類あって一般的な1人乗り平蓮台は4人で担ぎ、2人乗りは6人で
               担いで渡った。
               他に半高欄蓮台,中高欄蓮台,最高級の大高欄蓮台などがあった。
   馬越し   --- 人や荷物を馬に乗せたまま川越人足が付き添って渡った。
               一般人には許されなかった。
   棒渡し   --- 細長い丸太の両端を侍の川越二人が持ち,それにつかまって渡る。
               無賃者等を渡す例外的な方法だった。

 当時の大井川の通常の深さは2尺5寸(76cm)だった。 しかし増水し、4尺(122cm)になると馬越えは禁止となり、更に増水し4尺5寸(脇通し,136cm)を越えると川留めとなった。

 尚、川を自力で勝手に渡る事は許されなかった。

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蓮台の種類
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 川渡しの賃銭は人足の数と川の深さで決めていました。
川を渡る時には、川会所で川札や台札(蓮台の札)を購入し、川を渡る時に川越人夫に札を渡す事で支払いました。 川越人夫は旅人から受け取った1日分の札を札場で清算しました。

で、川札1枚の値段は下の様に川の深さによって決められていました。
kawafuda-nedan[1].jpg

札場  下写真の立て看板の右が窓口で、ここで川札を清算した様です。
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現在の費用に換算してみると、
 常水時(股通し)肩車で渡る場合は1440円で済んだが、帯下通し以上に増水した時は補助役が1人付く為 1560円の川札2枚必要で3120円以上に相当しました。
 又、1人乗り蓮台で川を渡る場合、担ぎ手4人分の川札と蓮台の台札(川札2枚分)が必要で、常水時(股通し)でも合計8640円もかかりました。

 江戸時代の旅人は大井川を勝手に渡る事が出来ず、しかも高額の渡し人足の費用が必要になった様です。  橋を歩いて渡る事が出来る今は本当に幸せです!!!


 で、大井川の渡し場の配置は下の様になっています。
川越人足は1番から10番の組に分けられ、1番宿から10番宿に待機していて、川会所は日々の交通量に合わせ各組の出番を指示しました。
又、川の渡し人足を引退した人たちが集う場所として、仲間の宿等もありました。

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1番宿から10番宿はほぼ同じ様な造りで、下写真は10番宿とその内部です。
blogDSCN6328.jpg

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 で、幕末・明治維新の時には1200とも1300人とも言われた川越え人足は、明治3年5月川越え制度廃止に伴い失業しました。
 これを見かねて金谷宿の醤油屋3代目の仲田源蔵さんが私財を投じて援助しましたが限界があり、島田群役所や上京し政府に直訴し、一戸当たり10両と東西萩間村原の300ヘクタールの開墾許可を得て、明治4年6月金谷宿側の100人を率いて入植しました。 これが今の牧之原地区の大茶園の基礎となりました。

仲田源蔵さんの石像 (金谷宿側の大井川渡し場)
blogDSCN6403.jpg

牧之原地区の茶畑
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 大井川の渡しは、川の東岸(JR島田駅側)に昔の建物が多く残っており、上配置図の様に 「島田市博物館」 の隣りですので、下の博物館のページで行き方等を確認し、行ってみたら如何でしょうか?
https://www.city.shimada.shizuoka.jp/hakubutsukan/information/information.html



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風来鶏

家の近くには"無縁仏"の墓が数多く点在しますし、地元の地蔵尊供養祭には"餓鬼仏の供養棚"を設けますが、これは牛や馬と言った家畜だけでなく"川流れの無縁仏"も含まれるそうです^^;)
http://moony-flight.blog.so-net.ne.jp/2014-08-18
お金が無かったのか、それとも他の理由で"自力で大井川を渡ろうとした人"が溺死して、地元付近に流れ着いたのを供養したのではないかと推察します!?

by 風来鶏 (2015-07-05 16:36) 

kotobuki1946

風来鶏さん
東海道を歩いていると本当に多くの無縁仏の場所が多くありました。
一番驚いたのは下記ページの大火や疫病で亡くなわれた方の無縁仏があった事です。
http://hisashi1946.blog.so-net.ne.jp/2010-02-01
by kotobuki1946 (2015-07-06 20:38) 

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