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東海道五十三次 大津宿から京都三条大橋 その1(大津から山科) [ 東海道五十三次]

   
 先日、久しぶりに東海道五十三次を歩いてきました。
 今回は「大津宿大塚本陣跡」から京都市山科迄と短距離として、むしろ「琵琶湖疏水」等琵琶湖周辺の観光が主となってしまいました。 で、観光部分は別途レポートするとして、今回は大津宿から山科迄をレポートします。

 12月3日朝、新幹線で米原迄行き東海道本線に乗り換え彦根で「彦根城」を見学、そして再度東海道本線に乗り大津駅に着いたのは午後2時頃。 前回(2023.5.25)の終点大津宿大塚本陣跡迄行き、東海道歩きを始めました。

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 大塚本陣から350mでJR線の蝉丸跨線橋 (上関寺トンネル)に出ました。

 この辺の東海道線は複々線になおり、南側の2線はレンガ造り、北側の2線はコンクリート造り。 「蝉丸跨線橋」(表示プレートには「上関寺」とあった)と言われ、レンガ造りの方は大正10年に竣工したそうです。 
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下写真の様に大正10年のトンネルが今でも現役です。
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 JRのトンネルから400m程歩くと街道から京阪線を挟んで「関蝉丸神社下社」がありました。
「琵琶の名手蝉丸をまつる神社で、この神社は下社にあたる。 平家物語、謡曲「蝉丸」などにも、その名が見え古くから歌舞音曲の神として知られる」との事。

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 大塚本陣跡から約600m、京阪電車の踏切を超え「安養寺」前に出ます。 ここには下写真の様に「逢坂(おうさか)」の説明石柱(空色矢印)等が立っていました。 石柱には下記のような説明が。
 「「日本書紀」によれば、神功(しんぐう)皇后の将軍・武内宿禰(たけのうち すくね)がこの地で忍熊王(おしくまおう)とぱったりと出会ったことに由来すると伝えられています。この地は、京都と近江を結ぶ交通の要衝で、平安時代には逢坂関が設けられ、関を守る関蝉丸神社や関寺も建立され和歌などに詠まれる名所として知られました。」

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 更に進み「安養寺」から約100m、街道の右側に「旧逢坂山隧道東口跡地」があります。
 この隧道は、日本人技術者のみで完成した日本最初のトンネルで、1878(明治11)年10月に起工、1880(明治13)年6月28日竣工。
 東海道本線大津~京都間の旧線のトンネルで、馬場駅(現在の膳所駅(ぜぜ駅))~大谷駅(大正10年8月1日廃止)の間のトンネルとして使われていましたが、大正10(1921)年8月1日に東海道本線の短絡新線(現在の東海道本線)が出来た事で使用廃止となりました。 (上記蝉丸跨線橋 の所のトンネルが使われる様になり下写真のトンネルは廃止となった。)

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「安養寺」から450mで高速道路の下に、国道1号線は東京日本橋から486kmとの表示でした。
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高速道路下から約100mで「関蝉丸神社上社」に到着。 下社からは約800mだった。
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更に高速道路下からで200m程歩くと「弘法大師堂」がありました。
紅葉は終盤でしたが趣のある風情でした。
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 弘法大師堂を過ぎると街道は大きく曲がり、登り坂も急になり、しかも人家はほとんどなく、日陰の寒さや彦根城観光の疲れとも重なり、なんとなく寂しい様な気分になりかけたが、「もうすぐ京都! もうすぐ京都!」と奮い立たせて坂を上り切りました。

下写真は坂の途中から大津方面に振り返って撮影。
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 弘法大師堂から約270m、「東海自然歩道 逢坂山歩道橋」を通過するとすぐ右側に「逢坂の関」がありました。 今回の東海道歩きではこの「逢坂の関の石碑」を見る事が1つの目標でしたので目標を1つ達成。 しかもこの関跡が峠の頂上の様でこれからは下りだけと思うと気が楽になりました。

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 この逢坂の関跡には上写真の様に石碑と逢坂常夜燈があり、その隣には下写真の様に休息所があり、逢坂の関の説明やこの付近の歴史的な事柄を書いた掲示板がありました。

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 掲示板の中には「逢坂の関」も下写真の様に説明されており、他には逢坂越えの「車石(後に詳細説明あり)」、日本国内算盤発祥の地「大津算盤(1612年に中国からの算盤を改良した物)」、17世紀前期から旅行者の土産用としての販売された「大津絵」等が記されていました。

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関跡を過ぎたと所で国道1号と分かれ、右側のうなぎ屋さんが並ぶ通りに入って行きます。
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 うなぎ屋さんの通りを300m程歩くと再び国道1号に出ます。 そこで歩道橋を渡り更に400m程歩くと「月心寺」に出ますが、その手前のお宅の前に「車石と車輪が置かれ、大津算盤に関する石柱」も立っていました。
車石とについては上記の関跡の休息所の掲示板に下記の様に細かく説明されていました。

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 写真をクリックすると拡大表示され、石柱には「算盤の始祖片岡庄兵衛」さんに関する説明が書かれており、その文書も読めます。
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 月心寺の西角には「右一里丁 左大谷町」と読むだろう石碑があり、この石碑から京都寄り付近が「一里町」と呼ばれ「大谷の一里塚」があったと思われるが塚は見つからなかった。

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 月心寺から800m程歩くと国道1号線は右にカーブし高速道路の下をくぐり、旧東海道は1号線と別れ大津警察署藤尾交番の左側に入っていきます。 で、月心寺から1.2㎞で「髭茶屋追分」に出ました。 中央の石柱には「みきハ京ミち」と書かれていて、もう一つには「蓮如上人御塚」と書かれており、最近補修した様です。
 で、下右の写真は東海道を歩いておられた先人「東海道のんびり旅」のレポートの写真をお借りしましたが、この方の2006年12月23日の時点の写真では道路に半分埋まっていた様です。
勿論私は江戸時代の道しるべに従って交差点の右側の道を進みます。

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 髭茶屋追分の交差点から約100m、「閑栖寺」にも車石の展示と説明がありました。 ここの境内には車石の模様が再現されている様ですが門が締まっており、先に進む事に。

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 さらに進み、髭茶屋追分から450mの所に国道1号線を横切る歩道橋がありましたが、なんと歩道橋は使用禁止! 一瞬パニックになりましたが、掲示板を見て1号線の歩道を大津方面に戻り、地下道をくぐり何とか街道筋にでました。

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歩道橋から約100m戻った所の地下道入り口  地下道を出て旧東海道に戻って
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 髭茶屋追分から約700mの所に「三井寺観音道」と記された石柱がありました。
 この道標が「小関越道標」であり、ここを右折し道標通りに北の方に入り、小関越えをして大津市小関町3丁目にある「小関越道標」に出て道標の交差点を左折し三井寺の観音堂に行く事が出きます。 この小関道を歩いてみたい様な誘惑がヒシヒシと! でも今は無理 我慢我慢。
 所でこの「小関」とは、古代に関所があった逢坂の関を大関として、この三井寺観音堂道は裏道にあたり小関と呼ばれていた様です。

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 実は「大津警察署藤尾交番」を過ぎたあたりから「マダカ マダカ」とず~~~ッと探し求めていた標識がやっと見つかりました。 それが下写真に写っています。

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 そう! 「京都市」の道路標識です。 
 やりました。日本橋を2009年12月15日に出発して実に14年かけてやっと京都に到着しました。
 多くの街道歩きをされておられる方からすると「遅い」の一言でしょうが、色々あってやっとここまで来ました。 だが感賞するのはまだ早い!

 気を取り直して歩くと京都市の標識から450m、立派なお寺風の建物があり、思わずカメラをパチリ! (何時もの私でしたら見学するのですがパチリのみ。 実は午前中は彦根城を見学させて頂き、大津に移動、逢坂を上がって来た疲れで(26000歩を越えていた)ヘトヘト,足はパンパンだったのです。)
このお寺さんは徳倫庵(山科地蔵)と言われ、本尊に地蔵菩薩様を祀る臨済宗南禅寺派の寺院です。

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 で、お地蔵様を通りお地蔵さまから歩く事400m、京阪電車の「京阪山科駅」・「JR山科駅」前の交差点に到着。
本日の目標達成,今回の東海道歩きは終了。


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次回の東海道歩きで「完歩」となります。      寂しくなるかもなア~~~???


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