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2001年9月11日 私が出会った出来事 [日記]

 今日は突然ブログを書く気になりました。
 理由は、 ”9・11テロ” の日の記事で、今日を逃すとまた一年先の記事になるから。 下の娘が、ケンタッキーの私のアパートに来て、先のブログで書きましたイエローストーン公園に行った翌々週の出来事です。

 
 私は、翌年に発売する車の準備で、下の娘は夏休みを私の所で過ごし帰国の為に、9月12日にシカゴ発成田行きを予約してありました

 何時もの様にアパートを7時30分に出て、8時10分前位に席につき、8時から朝礼を15分位。
朝礼で私は ”明日から約1ヶ月日本で仕事をしてきます” と連絡。 各自、席で仕事を始めました。
 少しして、周りが騒がしくなり、アメリカ人が ”ビルが燃えている” ”飛行場のビルだ” 等情報が錯そうしている様でした。 何時もこうゆう時のアメリカ人は ”仕事をほったらかしてお祭り騒ぎ”をします。
私は人ごとの様に ”また何時もの「ばか騒ぎ」” と思い、日本での仕事の準備をしていました。


 が、アメリカ人のマネージャーが、 「Kotobuki、あすの飛行機はないかも」と言ってきました。
 「エ~~~~~ !!!!!」   「何で?」ーーー日本語で。
 「テロらしく、飛行機がニューヨークのビルに突っ込んだ。 飛行場は全面閉鎖中です。」ーーーと日本語のわからないマネジャーから英語で回答。
 すっ飛んでアメリカ人の副社長室のテレビを見に行き、「アメリカ人にとって事態が深刻である」事がやっと呑み込めました。

911[1].png

 と、職場のアメリカ人が私の所に来て、「娘さんから何度も電話が入っていますが、話ができません。 アパートに電話をして下さい。」 との事。
 私は娘に電話をし、「明日12日の帰国は無理。 出来る限り早い飛行機を取るから。 何かあったら隣の大家さんの家に行く様に。 大家さんは奥さんがいるはず。」と伝えました。
とッ同時に、アメリカ人に大家さんに電話をしてもらい、「何かあったら私の娘を見て下さい。」とお願いをしておきました。 大家の奥さんは勿論OK!
(私が帰宅したのを見計らって、大家の旦那さんが来て、”娘さんが不安なら昼間は家に来ていてもいいよ” との事。) 



 で、多分10~11時頃、総務部の購買担当の女性に 「JALの飛行機で一番早く飛行再開する飛行機はどれか」 を調べてもらい16日の飛行機に変更しました。 人にもよりますが、概してこうゆう時のアメリカ人は非常に親切で、「娘さんもシカゴまでのローカル便を含め全て確保しました」 との事。

 で、会社の中は結局1日中ペンタゴンだ、(私の住む)リッチモンド(ケンタッキー州)の化学兵器倉庫は安全なのか等々で騒々しく右往左往しておりました。

ちょうど7年前のこの時間頃の出来事です。





 で、9月16日の帰国はと言うと、
 15日(土曜日だったと思う)朝、旅行会社に電話をすると 「16日はローカルの飛行場が閉鎖です。 すぐに支度をし、今日のシカゴ行きに乗って下さい。 刃物など危険なものは絶対に持たない様に!」 との事。

 私はただ、 「はいわかりました」 としか言いようがありません。
 で、寝ていた娘を起こし、「今出発する。すぐ帰国の支度をしなさい。」
 寝起きの娘は「はい。 ?????」 だったようです。

 2001年9月15日無事シカゴに到着、飛行場のすぐ近くの「ホリディ イン」に一泊し、16日朝無事日本に向け出発できました。 飛行場の荷物検査が非常に厳しかった事は勿論です。




後日談

 上記の総務部の購買担当も四方八方手を尽くして毎日 ”16日のJAL” の状況確認をしてくれていました。

 2001年10月末に帰米し、彼女と顔を見合せ、二人してにっこり。
 彼女の最初の言葉 「15日に臨時便が飛んだんでしたね。」 
 私、「ありがとう。 これ、お土産」 と日本の 「木目込み人形」 を渡しました。
 勿論、彼女はまたにっこり。 本当に嬉しそうだった。

 約2ヶ月後、電話会社の請求書を見て私はびっくり。
9月11日~12日の電話代が 350ドルちょっと。 私が会社にいる間中娘は、日本の自宅に電話をしていたようです。

 


前回の記事のコメントの回答は明日と明後日書きます。 後先になりすいません。


 



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コメント 8

ガンバルおやじ

あの事件の時に、アメリカにおられたとは。
あのとき流れた映像は、衝撃的でした。
それにしても今でも世界は混沌としていますよね。


by ガンバルおやじ (2008-09-12 05:35) 

いとお

まさにあの日の当日コチラにいらしたんですねぇ。
私はまだ日本にいましたが、
TVで見た映像は忘れられないですね。
by いとお (2008-09-12 12:45) 

OILMAN

こんにちは。
当日テレビで生中継されているところを見ていましたが、今でもあのショックは忘れることができません。
あの瞬間までリアルにああいうことが起きるなんて想像もしていませんでしたから・・・
テロという言葉が当たり前に聞かれるようになった今日、いつどこで起きるか分からないという恐怖を常に感じなければならなくなったというのはとても残念です。
by OILMAN (2008-09-12 23:23) 

Go-Ray

僕があのテロを身近に感じたのは、次の一件でした。
アメリカから古いエアレース機を招いて開催される予定だった、
南紀白浜空港での航空ショーはテロ直後、中止になりました。
予約していた旅館にキャンセルの電話を入れると、
宿の親父さんは残念そうな声で「いいよ…」と返事されました。

脅威が、あらゆる形で、分り難く存在している、暮らしにくい世の中になってしまいましたね。
by Go-Ray (2008-09-13 00:04) 

plot

あれから7年経ったのですね。
イタリアのTVも終日特別番組を組んでいました。
時間が経っても、あの日以来、世界の何かが修復不可能なほど破壊されてしまったという感覚は消えません。
by plot (2008-09-13 04:06) 

ベアトラック

あの日、東京の出張からちょうど帰宅した時、NHKの生放送で、2機目が激突する瞬間を見て、大きな衝撃を受けました。今でも忘れられません。
その年の10月にニューメキシコ州に出張しましたが、とても複雑な気分でした。
by ベアトラック (2008-09-13 06:40) 

BPノスタルジックカーショー

おはようございます。

あの時のTVは忘れられません。
最初の遠くから撮ったNYは衝撃的でした。
あれからアメリカは大きく変わりましたね。
by BPノスタルジックカーショー (2008-09-13 07:48) 

kotobuki1946

ガンバルおやじさん
本当にアフガニスタンもイラクも落ち着く気配が見えません。

いとおさん
テロ以前のアメリカ国内のローカル線は荷物検査などないに等しかったですよ。 あのテロの時は乗るたびに検査方法が変わって、いやな思いをしました。 でもいい経験でした。

OILMANさん
本当に生中継でしたからね。 ケンタッキーはニューヨークから離れていたので、情報が錯そうしていただけで、それほど感情的な事はありませんでした。

Go-Rayさん
あなたのいとこは大変でしたよ。 ともかく電話代を見てびっくり。
英語が分からないので、テレビをアメリカと日本で見ながら実況中継並みの事をしていたようです。

plotさん
イタリアではどう見ておられるんでしょうか? 日本人の私がアメリカで感じていた事は白人のキリスト教徒対イスラム教徒の様に見えました。
だからイラクまで っという感じでした。

べアトラックさん
南部の方は兵士が多いので、イラク戦争までは複雑でしょうね。

BPノスタルジックカーショーさん
本当にアメリカは変わってしまいました。 ブッシュは戦争に明け暮れの様です。 今度の大統領候補は共に”第一に力”ではなさそうですのでマーマーかな。
by kotobuki1946 (2008-09-14 19:58) 

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