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東海道五十三次,関宿から坂下宿 (その1:鈴鹿川の橋は丸太橋だった) [ 東海道五十三次]

  
 先日、東海道五十三次の内「関宿」から「坂下宿」を歩いて来ました。

 関宿は下記ULRで今年5月末と6月初めにレポートした様に静かで江戸時代を思わせる歴史的な景観地区です。 古い街並みに興味のある方は必見です。
 https://hisashi1946.blog.ss-blog.jp/2019-05-29
 https://hisashi1946.blog.ss-blog.jp/2019-06-04


 で、今回も早朝6時20分に家を出て名古屋経由で亀山市の関駅には11時20分に到着。
途中新幹線を使っても5時間もかった。 ずいぶん(♬思えば)遠くへ来たもんだ !

 で、前回の終点「関地蔵院」から旧東海道を歩き始めます。
 (関地蔵院は、国内最古の地蔵菩薩で 741年、奈良東大寺の僧行基が、流行していた天然痘から人々を救うため、この関の地に地蔵菩薩を安置したと伝えられています。)
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 地蔵院を過ぎても 格子の古い建物は続き、地蔵院から約100mで田中家の前に出ます。
田中家は代々「醤油醸造業」を行っており、建物は大正時代初期の物です。
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 格子の家並みを見ながら550m程歩いた所に観音院がありました。
 観音院は古くは福聚寺(ふくじゅうじ)と言われ嵯峨天皇の時代(820年)の開創だそうで、中世(12~16世紀)にはこの地の豪族関氏の祈願時として栄えたそうです。
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 そして、更に100m強歩いた所に「関宿西の追分 休息施設」に到着しました。
ここが実質的な関宿の西のはずれであり、「亀山市関宿重要伝統的建造物群保存地区」の終点です。 休息施設の内部には畳の休息室や関宿の説明掲示物がありました。
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 休息施設からなだらかに左カーブを下って行くと「西の追分」に出ます。
追分とは分かれ道の事で、ここは左に行くと「大和道」真っすぐは「東海道」となります。
今風に言うと、ここは国道1号線の「新所町交差点」で左に曲がると「国道25号線,奈良方面」真っすぐは「国道1号線,京都方面」となるのでしょう。
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新所町交差点からは国道1号線を歩きます。
 で、新所町交差点から500m弱、市瀬の交差点を過ぎた所の左側駐車場内に「転び石」と言う直径2m程の大きな石がありました。
 この石は、「東海道名所図会」等にも描かれており、「弁慶ころがし」とも言われ、言い伝えによると「付近の山から転がり落ちてきたもので、夜な夜な山に戻りたいと唸り声を出して人々を恐れさせたが、通りかかった弘法大師様がこの石を供養したところ、石は静かになったと伝えられている」との事。 (なんでも弘法大師が出てくる様な気が?)
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 更に歩き、新所町交差点から700mの所で1号線から右に曲がり、鈴鹿川沿いを歩き160mで鈴鹿川を渡ります。 下写真は橋から上流方向を見た所で、ここから時々鈴鹿川の渓谷を見ながら鈴鹿峠に向かって、上り坂と感じない程ゆっくり登って行きます。
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 更に旧道を50m程行くとT字路にぶつかり右に曲がって行き、道なりに少し進むと国道1号線にぶつかります。 1号線を斜めに横切り下写真濃い矢印の方向に歩きます。
写真左の灯篭は誓願寺さんの前の物で、その向かいには小さな祠と中にお地蔵さんが。
(関の地蔵院さんの様な大きな施設もこの小さなお地蔵さんも同じ様に旅人を見守ってくれているのでしょうね!!!)
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 国道1号線を横切って旧道を道なりに歩くと約250mで再び1号線にぶつかり、今度は1号線を歩きます。 1号線を歩き続け750m、右側に入る2つ目の路地の所で少し入った所に筆捨山の掲示板がありました。
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 更に歩くと国道1号線が左急カーブになっており、小さな集落がありました。 歌川広重の「坂下宿」はこの辺から筆捨山を描いたのではないかと思います。
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 国道1号線を歩き始めて1.2km、1号線の左側に一里塚がありました。 ここの塚は江戸から107番目「一ノ瀬の一里塚」と言われ、旧東海道を歩いた先人達のレポートでは笹やぶの中に塚が立っていましたが、今回は綺麗に刈り取られていました。
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 一里塚から100m弱で再び国道1号線と別れ、右の旧道に入って行くと約100mでコミニティバスのバス停「楢の木」に、更に進み約800mで「超泉寺」の山門を右に見てその先にはコミニティバスのバス停「沓掛」が有りました。 そして1号線を別れて約1100mで「坂下郵便局」に出ます。

一里塚から100m、国道1号線からの別れ道,黄緑丸内は旧東海道の案内板
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「超泉寺」の山門
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坂下郵便局のある沓掛の集落の入り口には、鈴鹿川に丸太橋が掛かっていました。
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坂下郵便局前
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 長くなりますので、取り合えずここでレポートを中断し、次回続けてレポートします。

 尚、郵便局の先は坂下宿の集落となります。


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東海道五十三次 亀山宿 から 関宿 その2(関宿の街並み) [ 東海道五十三次]

 
 先々月石薬師宿から関宿迄を歩き、「東海道五十三次 亀山宿 から 関宿 その1」等のブログで関宿の入り口迄をレポートしました。
今回は関宿の歴史ある街並みをレポートします。


 4月17日は井田川駅から歩き始め、亀山宿を出た時には雨になり、「関宿東の追分」に着いたのが午後3時半を回っていました。 で、この日は関の街並みをほぼ1/3の所迄(百五銀行を過ぎた所)歩き亀山駅近くのホテルに戻りました。 翌18日には関宿の街並みを散策し、「関の地蔵尊」を少し過ぎた所で東海道歩きを中断、帰宅しました。


 で、関宿の東の追分を過ぎた所からレポートします。
 歴史ある建物が次々と!、延々と! 続きます。
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  一の鳥居から450m、御馳走場に着きました。
(カメらを構えた所に軽トラックが来て目の前に駐車、全体を取る事が出来ませんでした。)
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御馳走場の向いにも素敵なお宅が。
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少し歩くと最近建てられて、まだ開所されていないと言う山車庫がありました。
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 ここで、突然ですが、皆さんは「せきのやま」と言う言葉をご存知ですよね?!

「せきのやま」と言うのは「精一杯」とか「これ以上できない限界」の様な意味で「なしうる限界」を現す言葉と思います。
 では「せきのやま」の語源はご存知ですか?

 多分こう書けばわかるかと 「せきのやま」→→「関の山」→→「関の山車(やま)」

 そうなんです。 関宿の方々は「なしうる限界」まで頑張って「山車」を作っておられたとの事から「せきのやま」と言う言葉が生まれ、限界を現す言葉となった様です。

で、「せきのやまかいかん(関の山車会館)」(黄緑矢印)と言うものが、新しい山車庫の隣にありました。
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御馳走場から100m弱「百五銀行」。現在の銀行で関の街並みに配慮した建物となっています。
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 この日は朝8時半頃にホテルを出て、井田川駅から亀山宿を経て関宿の1/3入った所で午後4時半。 雨で夕暮れも早く、疲れもありこの日は此処で終了に。

 で、関駅に出て初めての「西日本旅客鉄道(JR西日本)」のローカル電車で亀山駅近くのホテルに戻りました。

関駅
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初めて乗るJR西日本のローカル電車,関西本線の明るい色の電車で疲れも半減です。
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 前日迄の二日間の頑張りで、翌日は体がだるく関宿の街中を散策するだけとしました。
朝ホテルを出て関西本線の空色の電車に乗り、関宿に9時半頃に到着。

 昨日の百五銀行まで戻り西方向に散策を再開。
 百五銀行から続く旧家。
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百五銀行から150m、街道の左側岩田屋さんの西隣りが「関まちなみ資料館」です。
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まちなみ資料館は「旅籠玉屋歴史資料館」とセットで300円で内部を見学出来ます。
まちなみ資料館の内部           現在の関の街の航空写真もありました。
                 (関の街は今でも旧東海道を中心とした街並みです。)
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まちなみ資料館のはす向かいが脇本陣の鶴屋さん、
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そしてその西隣りが中町三番町の山車庫の所が「問屋場跡」です。
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 百五銀行から約200mで川北本陣がありました。
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川北本陣の説明は「関まちなみ資料館」にもありました。
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 で、川北本陣の門が近くの「延命寺」の山門として明治5年に移築されており、川北本陣の唯一の遺構となっているとの事。 と言う事で見に行ってきました。
 延命寺の住職によると、「川北本陣の門はお殿様が宿泊する際、馬に乗ったまま入場する為かなり高い門であった」 所がお寺の門としては不釣り合いな程高い門になってしまう為、門の柱の下部を切って設置したとの事。

 川北本陣の門は薬医門で、彫刻の形式などから17世紀後期の建築と見られ、屋根の鬼瓦には川北本陣の家紋である三蓋松が彫られているとの事。
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 川北本陣から西へ60m、左側に「伊東本陣跡」(矢印先)がありました。
又伊東本陣についても「まちなみ資料館」に説明がありました。
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 川北本陣から約100m、「関宿 旅籠 玉屋 歴史資料館」があり、「関まちなみ資料館」で購入したセットの入場券で入って見ました。

写真左側が「旅籠玉屋歴史資料館」で、右側は現在の旅籠「民宿の石垣屋」です。
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「旅籠玉屋歴史資料館」の内部
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江戸時代、関宿の特産は「竹火縄」だったそうです。 (クリックすると大きく表示します)

 江戸時代にはマッチやライターは無かった。
その為タバコ吸いの為の火種用等に関の火縄は良く売れ、火縄屋さんは数十軒有りかなり強引な販売も行われた様です。
(マッチは1827年にイギリスの化学者ジョン・ウォーカーが考案、日本には輸入されていたが、明治8年(1875年)頃に吉井友実が三田別邸に構えた仮工場で製造を始めた。)
(クリックすると大きく表示します)

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下写真は民宿の石垣屋さんの内部。 相部屋の宿泊もあり、まさに現在の旅籠かも?
 石垣屋さんのページ  http://www.ishigakiya.net/ryoukin.html
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「旅籠 玉屋 歴史資料館」の西隣は「関郵便局」で、立場(立札場)も設置されていた。
郵便局も歴史ある関の街並みに合わせて昔風の建物となっています。

 ここ関郵便局の地は、天正20年(1592年)徳川家康が休息した場所で、「御茶屋御殿屋敷」と呼ばれていた所です。 その後陣屋や役人の詰所などに使用されていた。
又、街道に面した所には11間もの立札場があった。
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郵便局の向いは関宿の三大銘菓の一つ「関の戸」の深川屋さんです。
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 郵便局から170m、「関地蔵院」です。
関地蔵院は、国内最古の地蔵菩薩で知られる地蔵院(通称・関のお地蔵さん)です。
天平13(741)年、奈良東大寺の僧行基が、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、この関の地に地蔵菩薩を安置したと伝えられています。
関地蔵院のホームページ ; http://www.seki-jizoin.or.jp/index.php

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地蔵院の鐘楼です。
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 地蔵院の向いにはやっと!観光地らしいお土産屋さん等が数軒ありました。
「やっと」と言う程 旧家が約2kmも立ち並ぶ中、多くの観光地の様にお土産屋さんが立ち並んではおらず、静にゆっくりと歴史ある街並みを見学できます。 又、多くのお宅で内部も見学できる様で地元の人との会話も楽しいと思います。 私は油屋さんに寄り30分以上も話し込んでしまいました。
尚、歴史ある建物が多く、関駅構内の案内所で街並みの資料を入手、持参しながらの見学がいいかも!!!


 下写真の緑矢印先が「小万茶屋」で小万茶屋の左が会津屋(昔は旅籠の山田屋)さんで、小萬が育った旅篭として知られている。
 「関の小萬とは、 久留米藩士 牧藤左衛門が同僚に殺され、その妻が仇を追って 関迄来たが旅篭山田屋で 女子を産んで死亡。 旅篭の主人 はこの子を小萬と名付けて 育てた。 小萬は親の悲劇を 知らされ亀山で剣術修行をし やがて仇を討ち果たした。 その後恩有る山田屋で奉公し36才で亡くなった。」
小萬については関宿の入り口の「もたれの松」についても参照願います。

又、「福蔵寺」に「お萬の碑」あります。
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東海道五十三次 亀山宿 から 関宿 その1 [ 東海道五十三次]

 先月石薬師宿から関宿迄を歩き、「石薬師宿から庄野宿」や「東海道五十三次 庄野宿 から 亀山宿 その1」・「その2」のブログで亀山宿迄をレポートしました。
今回は亀山宿から関宿迄をレポートします。


 4月17日は井田川駅から歩き始め、亀山宿の京口坂橋に着いた時には午後1時を回っており、しかも霧雨が降ったりやんだりの非常に不安定な天気でした。 それでも亀山駅近くのホテルに戻らず関迄歩く事にしました。


 京口坂橋から約150m歩いた所で、軽食の「一休処骨董カフェ」を見つけ昼食替わりに何か食べようと入って見ました。 中には骨董品を買いに来られた人達もいました。
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で、私は昼食替わりにと「ぜんざい」を頂きました。
尚、ここは下右写真の様に国の有形文化財だそうです。
                    写真をクリックする大きく表示します。
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 ぜんざいを食べ、ゆっくり休息をしている間にカフェから見える中庭では、徐々に霧雨から雨に変わって行きました。 が、歩くと決めたのでリュックから傘を出し歩き始めました。


 一休処骨董カフェから650m、野村一里塚に出ました。
ここの一里塚は以前は街道の南北にあったが、大正3年南側の塚は取り払われ北のみとなり、今では三重県の東海道では唯一昔から続く一里塚となってしまいました。

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 一里塚から道なりに歩き650m、地図上で毘沙門天と書かれたY字路を右側に行き、さらに150m程歩いた所で、左側に森の様に樹木に囲まれた神社がありました。 門前右の説明板を見ると「布氣皇舘(ふけこうたつ)太神社」との事。 長い参道を歩き中に入ってお参りをしてきました。
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 布氣皇舘太神社を出て道なりに歩き550mで関西本線の陸橋を越え、少し進むと桜並木の道になり陸橋から約500mで鈴鹿川の堤防となります。
 この辺りが大岡寺畷(たいこうじなわて)との事。
 「大岡寺畷は、約2kmにわたって鈴鹿川沿いに築かれた堤の上を通る畷で、東海道の畷の中では随一の長さとされています。」との事で詳細は下の写真を見て下さい。

 旧東海道は、関西本線の陸橋から750mで高速道路の下を通り、更に川沿いの堤を雨の中1.6km程歩き再び関西本線出会い、踏切を越えます。 踏切のすぐ先の国道1号線の「小野川橋東詰」の陸橋を渡り左に曲がり1号線沿いに進みます。
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大岡寺畷の説明板(写真をクリックすると拡大されます) 雨の鈴鹿川の堤         
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国道1号線を小野川橋東詰交差点から200m弱で関宿に入って行きます。
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 関宿への入り口には「関の小萬(こまん)のもたれ松」という碑がありました。
 「江戸中期、九州久留米藩士牧藤左衛門(まきとうざえもん)の妻はおっとの仇を討とうと志し、旅を続けて関宿山田屋に止宿一女小萬を生んだ後病没した。 小萬は母の遺言により成長して3年程亀山城下で武術を修行し、天明3年(1783年)見事、仇敵軍大夫を討つ事ができた。」
 この場所には、当時武術の修行の為亀山通いの小萬が、若者の戯れを避ける為に姿をかくしてもたれたと伝えられる松があった所から「小萬のもたれ松」とよばれる様になった。・・・
今は、多分この木が松だったろうと思われる小さな切り株がありました。

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 旧東海道は国道一号線から別れて550m、伊勢神宮一の鳥居に出ました。
 この鳥居は伊勢神宮の式年遷宮の際古くなった鳥居を移築した物で、ここは「伊勢別街道」との東の追分(分かれ道)で、津から伊勢街道に入り「伊勢神宮」へとつながります。
 又、東海道を歩いた先人のレポートでは「常夜灯の裏に一里塚」との事で、鳥居の裏を見ると確かに「関一里塚」の碑がありました。
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 この伊勢神宮一の鳥居(東の追分)から関宿の古い街並みが始まり西の追分迄1.8kmも続き、江戸・明治に建てられた建物が200軒余りも残っています。 又、国の「重要伝統的建造物群保存地区」や「日本の道100選」のひとつに選ばれている地区でもあります。
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 で、鳥居の斜向いにはいきなり200年以上経ている歴史のある建物「岩間家」です。
ここは屋号を白木屋と言い、主に東の追分で稼ぐ人足や車夫の定宿だった。 人力車が登場してからは常に30台が客待ちだったそうです。(レンズに雨粒が付いてしまいました)

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 で、歴史ある建物が次々と!、延々と! 続きますので、今回は一旦ここで中断。
 「東海道五十三次 亀山宿 から 関宿 その2(関宿の街並み)」に続きます。
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東海道五十三次 庄野宿 から 亀山宿 その2 [ 東海道五十三次]

 
 先月石薬師宿から関宿迄を歩き、その内前々回のブログで「石薬師宿から庄野宿」を、前回のブログで「東海道五十三次 庄野宿 から 亀山宿 その1」で庄野宿から亀山宿に向かって井田川駅迄をレポートしました。
今回は井田川駅から亀山宿迄をレポートします。


 ホテルを出て、8時45分頃に井田川駅(下写真)に着き歩き始めました。
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 歩き始めてすぐ、最初の記念碑は「旧井田川小学校跡」でした。
 自分の出身校が無くなった方にとっては、その跡地に行かれた時の淋しさは相当な物だろうと思います! 尚、この記念碑は旧井田川小学校の校門の門柱だったそうです。
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 井田川駅前から旧井田川小学校前を通って道なりに約400mで国道1号線に出ます。 陸橋を渡り国道と直角方向の道を100m弱進み左折します。
 左折し道なりに真直ぐ進み椋川の橋を渡り、国道1号線の下をくぐり、更に道なりに進み左折した所から900mで和田の道標がありました。

 「和田の道標」は東海道から鈴鹿市の神戸,白子,若松方面に行く分岐に建てられた物で、亀山城下の若松港にいたる重要な分岐点でした。
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 和田の道標から道なり右カーブして行くとゆるやかな上り坂となり、小さな川を渡ると桜並木の急坂となります。 その坂の上り始めの右に「那智山 松寿院 石上寺」がありました。
 石上寺は延暦15年(796年)に新熊野三社(いまくまのさんしゃ)の神宮寺として開創されたという歴史のあるお寺で、鎌倉から室町時代の古文書が20通(21点)も残されているとの事。
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寺の最上部には鐘楼もありました。
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 石上寺を出て坂を上り約300m、江戸から104里の和田一里塚に出ました。
昭和59年迄は昔の一里塚の一部が残されていたそうですが、道路の拡張で現在の塚は塚の跡地の東側に模式復元したものだそうです。
 (所でこの塚の前は何時も車が止まっている様で、多くの方が「残念」とか「車が出るのを待って写真を」とか書いています。 私も塚に到着した時にちょうど軽自動車が来て止まってしまったので塚の裏で休息をしながら車の出るのを待って写真を撮りました。)
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 和田の一里塚から700m歩くとカメヤマ株式会社です。
 この会社は1927年に谷川兵三郎さんがローソクを作る「谷川蝋燭製造所」を立ち上げ、その後明かりは電灯に変わる中キャンドルの活用等多くのローソクに関する事業を開拓し、今は国内のシェア―60%をほこっているそうです。
 カメヤマローソクに関するページ
  https://www.nttcom.co.jp/comzine/no092/long_seller/index.html

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 カメヤマ㈱さんの西の端の向いに「能褒野神社二の鳥居」があり、木の案内板には「従是西亀山宿』と書かれており、ここからが亀山宿の様です。 又、「屋号」等の説明板がありましたが、どの説明板も字が消えかかっており読むのにちょっと苦労しました。
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 能褒野神社二の鳥居の一軒隣りには「露心庵跡」の説明板がありました。
天正12年(1584年)神戸正武か亀山城を急襲したが関万鉄斎が撃退。この合戦の時の死者を城下東端に2ヶ所の塚を築き葬ったとの事。 詳細は下写真を参照願います。
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 能褒野神社二の鳥居から300m亀山本町郵便局前の交差点に着き、左を見ると小さな公園がありそこには「巡見道」と言う看板が。 「巡見道」や下説明板の「巡見使」は初めて聞く言葉ですが、地方巡回視察(時代劇の水戸黄門の様な?)の様な事が江戸時代にも行われていたと言う事の様です。 
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 亀山本町郵便局から道なり700mで県道566号に突き当たります。
 ここが「江戸口門」で、下右の説明板によると相当大きな施設だった様で、当時の旅人がここに到着した時にはその大きさに驚き、曲輪内を通る時は緊張しただろうと想像します。
で、東海道は下写真の様に右折して、県道566号を亀山城方向に向かいます。
                        写真をクリックすると拡大します。
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 江戸口門から100mで東町交差点に出ました。 前回1月26~28日に来た時は大雪(下右写真)の翌日で「亀山大市」の日でした。
地元の方に伺った所「亀山大市の日には雪が降る」と言う特異日だそうです。
 前回1月27日に亀山城近辺を散策した時のblogは下記
  https://hisashi1946.blog.so-net.ne.jp/2019-02-19
                        写真をクリックすると拡大します。
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 江戸口門から200mで、左側の「東町ふれあい広場(旧佐川邸跡)」前を通り、約400mで樋口本陣跡に着きます。 この頃から何となく雲行きが怪しくなりました。 雨??!!
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 樋口本陣から50m強、江ケ室交番前交差点を左に曲がり坂を下り、江ケ室交番前交差点から約400m、県道302号との交差点に出ます。
 この交差点の向こう側には小さな公園と石碑があり、旧東海道はこの公園脇の急坂を上って右折します。 又、右折して直ぐに左の旧家の玄関脇に「とんやば」の表札が。
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 右折して200m強、素晴らしい旧家と白壁の旧舘家がありました。
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 旧舘家から50m強で道なり右折して、更に70m進むと小さな公園の様な「亀山城 西ノ丸・外堀跡」に突当り、そこを左折して200m竜川(たつかわ)にかかる京口坂橋に出ます。 ここが歌川広重の浮世絵「亀山宿,「雪晴」です。
(1月27日、せっかく雪の後に亀山城周辺を歩いたので「ここ迄足を延ばせば良かった」と悔やまれてなりません。)

現在の「京口坂橋」               blogDSCN7769.jpg

歌川広重の「亀山宿,「雪晴」
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京口門跡には下の様な説明板がありました。写真をクリックすると拡大表示します。
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 京口門付近では霧雨が舞ったり、止んだりとはっきりしない天候で、「亀山駅に戻る」か「関宿迄進む」か悩みながらゆっくり歩き、結局「ここまで来て駅に戻るのは無駄」と関宿迄歩く事に。

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東海道五十三次 庄野宿 から 亀山宿 その1 [ 東海道五十三次]

 
 先日石薬師宿から関宿迄を歩いて来ましたが、今回はその内の庄野宿から亀山宿を2回に分けレポートします。


 石薬師宿の佐々木信綱記念館をほぼ14時に出発。 庄野宿に到着し、見学しながら歩き庄野宿の西入り口を16時通過。 日が暮れる迄には少ししか時間がありません。


 庄野宿西入り口から歩き250mで国道1号線と県道637号線との交差点を過ぎ、左折し直ぐに右折して道なりに進みます。
 国道の交差点から550m、左側に女人堤防の碑があり、又、その奥には小さな石碑郡があり、江戸時代の石碑も多数有る様でした。

 女人堤防の碑の文字は読めず、掲示板にはおおよそ下記の様な事が書かれていました。
 鈴鹿川の北安楽川との合流点は完全な堤防がなく毎年夏の水害で耕地や住宅が被害を受け、時には人命を失う事も。 幾度か堤防建設を願い出たが許可されず、しいて行えば打ち首の極刑に処せられる。 築堤は男子全ての命を失い部落の自活に支障きたすと、女衆二百余人が暗夜を選んで工事を行い六年で遂に完成。 何時しか藩主の知る所となり処刑の日は来たが、家老の死によって赦罰の早馬が来て二百余名の命は救われ、更に築堤の褒美まで送られた。

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女人堤防の奥の石碑郡
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 道なりに進み、女人堤防の碑から400mの所のY字路を左に進み、女人堤防の碑から550mで左側に「中冨田一里塚」がありました。
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 一里塚の説明文の中には「御馳走場」や「東百里屋(ともりや)」等初めての言葉の説明も書かれていました。 (クリックすると大きな画像になります。)
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一里塚の前を道なりに進み、安楽川の堤防に突き当たったら左に曲り、安楽川を渡ります。
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 橋の突き当りを右に曲がり堤防の上を少し歩き、道なりに堤防から下りると右にクラシカルな「和泉公民館」前に出ます。
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 和泉公民館から道なりにまっすぐ進み550mで地福寺に出ます。
地福寺前には大きな常夜灯があり、手前の階段を上がった所にはさぞ大きな観音堂だったろうと想像させる鬼瓦(鬼飾り)が展示されていました。
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 地福寺の前のY字路を左側に進み約100m、県道641号線を斜めに横切り、農道の様な道を200m程進むとT字路に突当り、右折し関西本線の踏切を渡ります。 
 踏切を渡って線路沿いを50m程歩き、道なり右折してまっすぐ200m程進むと先程斜めに横切った県道641号線に突き当たります。 左折し県道を200m弱進むと関西本線の「井田川駅」前に出ます。
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 井田川駅前でほぼ午後6時、疲れも手伝ってこの日は東海道あるきを終了する事に。
 で、電車で亀山駅迄行き、駅近くのホテルに宿泊。
 尚、この日の夕食は亀山のB級グルメ「味噌焼うどん」を食べさせて頂きました。 美味しかったのですが私にはちょっと味が濃すぎました。

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 尚、旧東海道の道順は毎回下記アドレスの方の地図を利用させて頂いています。
   http://nonbiritabi.edo-jidai.com/toukaidou/toukaido_doucyuuki_index.html
 毎度お世話になり、本当に有難う御座います。


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東海道五十三次 石薬師宿 から 庄野宿 [ 東海道五十三次]

  
 先日、東海道五十三次の内石薬師宿から関宿迄を歩いて来ました。
今回はその内の石薬師宿から庄野宿迄をレポートします。

 今回は、朝8時過ぎに家を出て新幹線で名古屋駅へ、そして桑名駅迄行き、近鉄名古屋線に乗り換え伊勢若松で近鉄鈴鹿線に乗り換え終点の平田町駅に13時過ぎに到着。
 (石薬師宿に近いJR線は関西本線の加佐登駅や河曲(かわの)駅ですが共に無人駅で、近鉄平田町駅は三重交通のバス路線やタクシーもあり割合便利な駅です。)

近鉄鈴鹿線 平田町駅  バスもタクシーもあります。
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 食事をとった後、タクシーで石薬師宿の佐々木信綱記念館前に行きました。
 前回1月26日は亀山宿迄歩く予定が「大雪」でここで東海道歩きを断念。 ちょっとした決断の遅れでバスにも乗れず、雪の中、国道1号線を黙々と歩き加佐登駅迄行き亀山のホテルに着きました。

 前回の佐々木信綱記念館  すごいボタン雪でした。
 (前回のブログ記事 https://hisashi1946.blog.so-net.ne.jp/2019-02-14

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そして今回の記念館  今回はこれ以上ない快晴!!!
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 そして歩き始めました。
今回は何となく股関節がスムースでない様な! 腰痛持ちなので何が起きても不思議はない。

 記念館から県道115号線との交差点を過ぎ道なりに行くと「高富山瑠璃光院石薬師寺」の名前からとった国道をまたぐ「瑠璃光橋」に出ました。 「瑠璃光橋」の先に宿場の名前となった「石薬師寺」の看板も見えます。

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 看板の脇を入り(実はここは裏門でした)奥に進むと本殿が。 お参りして、住職さんに御朱印を書いて頂きました。
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 本殿の前をまっすぐ進み左に出ると、正門です。
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 正門を出た所に「石薬師寺」の由来と広重の石薬師宿の絵が掲示されていました。
 (クリックすると大きく表示されます。)
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 石薬師寺から道なりに400m程歩き、才石川を渡ると「石薬師の一里塚」に出ます。
ここの掲示板によると、「天文9年(1540年)足利将軍が40町(1町は109m)を1里として一里塚を築かせたとの事。 しかし、慶長9年(1604年)2月徳川秀忠が東海道・東山道・北陸道に一里を36町(約3927m)に改め、一里塚を築かせたとの事。」

背景の電車はJR関西本線 亀山行です。
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 一里塚の前を左に曲がり、JR線下のトンネルをくぐり出た所で、すぐに右に曲がり線路下を歩きます。 この辺りはのどかな田園地帯、田植えのこの季節になると私の田舎と同じような風景に懐かしさを覚えます。
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 そして350m程歩き国道1号線の下をくぐり「椎山川」沿いに100m程歩き左側の橋を渡り、田んぼの中の農道の様な道を行き、350m程で国道1号線に出ます。
 国道を500m強歩くと「最も [恨めしい] と言うか [悔しい] と言うか [もう少しと安どした所] と言うか」 何とも言葉にならない場所「加佐登の交差点」に出ました。
(1月26日四日市から歩き、石薬師で大雪に会い、バスにも乗り遅れ、ただただ近い駅にと黙々と国道を歩き加佐登駅に向かった時の交差点です。)

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 加佐登の交差点を超え約国道を750m、庄野町北の交差点で右折して国道とわかれます。
少し行くと、左角に庄野宿入り口の石碑がありました。
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 庄野宿についての説明掲示板もありました。 (クリックすると大きく表示されます。)
庄野宿は江戸から102里との事。 日本橋から400kmとちょっと歩いた事になります。

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 庄野宿入り口から約350m、旧小林住宅跡の庄野宿資料館に出ました。
残念ながらこの日は休館日でした。 (休館日 月・火曜日,第3水曜日,年末年始)

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 7・80m歩くと右側の民家の壁に「問屋場跡」の表示があり、更に100m程歩くと沢田本陣跡です。
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 本陣跡脇の道路を挟んで隣には「高札場跡」の表示が、そして「脇本陣跡」や「郷会所跡」等の説明掲示板が次々と見つかりました。
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 で、本陣跡から約200m、川俣神社のスダジイを見学。
三重県の天然記念物で、樹齢300年,樹高11m,幹回り5mとの事。 
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 そして、本陣跡から400m、庄野宿の出口の石柱がありました。
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 で、歌川広重の庄野宿(下絵)に相当する所は何処か考えながら歩いて来ましたが見つからず、街道を歩きながらの私には下右写真がせい一杯でした。
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 石薬師宿の佐々木信綱記念館から約4km。 今回は股関節の具合も手伝ってかとにかく疲れました。 しかし、ここでリタイアするわけにはいかず、亀山宿を目指し歩きつ続ける事にしました。


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東海道53次,四日市宿から石薬師宿 その3 [ 東海道五十三次]

  
 ちょっと遅れてしまいましたが、昨年12月と先月の1月26日に東海道五十三次の内「四日市宿」から「石薬師宿」迄を歩いて来ました。
その結果を下記前2回と今回の計三回でブログに掲載します。
    https://hisashi1946.blog.so-net.ne.jp/2019-02-02
    https://hisashi1946.blog.so-net.ne.jp/2019-02-09
 
 前回迄のブログで「四日市宿」から「石薬師宿」のほぼ中間点である「日永の追分(東海道と伊伊勢神宮等の伊勢街道の分岐点)」迄をレポートしましたので、今回は「日永の追分」からをレポートします。


 追分から約200m歩くと「あすなろう鉄道」の踏切があり、左側は「追分駅」です。
旧東海道は、踏切を渡り小さな駅前広場の先で左側の路地を進みます。
 路地を真直ぐ進み日永の追分から1.1km、交差点正面の電柱には「東海道 ↱」の案内板があり右折し、更に100m程歩き「願誓寺」前を左折します。

 左折後約400mで「小古曽(おごそ)」の交差点に出ます。 左側には「あすなろう鉄道」の終点駅(始発駅?)「内部(うつべ)駅」があり寄って見ました。
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で、只今快晴!  快晴ですよ!! 

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「内部駅」のある交差点「小古曽」から更に400mで内部川の堤防に出ます。
現在は旧東海道の橋は無く、堤防を左に歩き国道1号線の橋を渡ります。
 小古曽の交差点から7・8分で堤防は薄暗い曇りに!
で、空模様は写真の様に左の四日市方向は青空! 右の亀山方向は雪雲だろうか!
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 橋を渡って100mの所で国道から斜め左に入るのですが、疲れていたので更に国道を100m程歩き和菓子屋さんの「菊屋本店」で昼食を兼ね和菓子を食べながら大休止です。
菊屋本店は東海地方のスイーツ本に「伊勢の赤福と並べ取上げられる」程の名店でした。
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 左上の最中の名前は「釆女の杖衝(うねめのつえつき)」、この地区の地名と史跡名がつけられていました。 丸い和菓子は「味くり」だったかな? 両方とも美味しかったですよ。
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 菊屋本店でゆっくり休んだ結果、足は軽く生き返った様な気分。
で、お店の右側の道を歩き最初の交差点を右に曲がり200m程歩き右折、更に100m強で左折し、約100m進むと「金刀比羅宮」の正面に出ます。
「金刀比羅宮」の前を左折した所から「杖衝坂」の始まりです。
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 杖衝坂は、東海道の中でも急坂な所で、
その昔、倭建命(やまとたけるのみこと)が東征の帰途、大変疲れておられ「そこより、やや少しいでますにいたく疲れませるによりて、御杖をつきて、稍歩みたまひき。故、そこをなずけて杖衝坂といふ」(『古事記』)とあり、杖衝坂と称される様になった。

 坂の途中に下写真の様に石碑があり、一番手前は「史蹟 杖衝坂」の石碑、その次は常夜灯、その先の屋根の付いた石碑は芭蕉の句とその説明板です。

 芭蕉の句は「歩行(かち)ならば 杖つき坂を 落馬かな」との句で、馬に乗ったままこの坂にさしかかったが、急な坂のため馬の鞍とともに落馬したという事を詠んだ句で、季語の無い有名な句だそうです。
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 坂の途中の石碑等を見ていると雪が舞い始め、又すぐに止むだろうと思いながらゆっくりしていると雪は横殴りになり増々強くなり、慌ててと言うか必死で坂を上り石碑郡の所にあった2つの井戸の事を忘れ先を急ぎ、「日本武尊御血塚」も見逃してしまいました。
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 杖衝坂の石碑から約400m,6分の所では雪は止み、あァ~アッ!今の雪は何だったんだ! と思っている間に晴れてしまいました。

 雪が上がり晴れると、杖衝坂の上の綺麗な紅梅を見る余裕も!
と、予想外の位置(杖衝坂から国道に出る前の所)に101番目の「釆女(うねめ)の一里塚」の説明板(黄緑矢印)が立っていました。
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 多くの先人達が「「釆女の一里塚」は下写真の様にガソリンスタンドの所」と言われていたので何故説明板だけが杖衝坂の上、下写真の石碑から350mも離れた所にあるのだろう?
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 上記一里塚の石碑から650m、「釆女(うねめ)南」の交差点に到着。
私はここで左折し旧東海道から外れ約850m、天平13年(741年)頃に創建された「伊勢国分寺跡」を見学する事に。


「伊勢国分寺跡」については別途レポートします。


で、伊勢国分寺跡を見学後国道1号線の国分町の交差点に戻り、旧東海道に復帰しました。

 国分の交差点で斜め左の旧道に入り約100m程行くと「屋根裏迄雑巾がけされている」のではと思う程良く手入れされた「単直庵と延命地蔵さん」がありお参りしました。
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 国道の裏道と言える様な静かな細い道を850m程行くと再び国道に出ます。 国道を横断する地下道をくぐって国道の右側歩道に出た頃から今迄とは違うボタン雪が舞い始めました。
この頃から名所旧跡以外はただタダ黙々と先に進む様になりました。


 で、地下道から250mの所で斜め右側の旧道に入ると直ぐの所に石薬師宿の「北の地蔵尊」がありました。 ここが石薬師宿の入り口だそうです。
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 地蔵尊では雪は本格的に降り始め、やっとたどり着いた石薬師宿なのに、本気モードでただタダ黙々と先に進みます。

北の地蔵尊から550mで、小澤本陣に到着、直ぐに写真を撮影、説明板を斜め読み!
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小澤本陣跡には今も小澤さんがお住まいになっています。
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 で、約100m、佐々木信綱さんの生家に到着。 隣には記念館も。
「佐佐木信綱」は国文学者であり、童謡「夏は来ぬ」の作詞者としても有名方です。

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 雪はますます激しくなり、佐佐木信綱記念館のロビーで雨宿りならぬ雪宿りをしていた所、記念館に来られたおばさんが「最寄りの駅迄乗せて行きますよ」との事でしたが、雪道の運転は危険と考え丁重にお断り、三重交通のバスで「JR加佐登駅」近く迄行く事に!

 所がバスは定刻になっても来ず、更に30分弱待ったがバスは来ず諦めました。 この時雪は1時間位で3~5Cm位の積雪。 タクシーを手配する為信綱記念館に戻って見ると記念館は閉館。 携帯電話でタクシー会社2社に電話するも「石薬師宿」方面に回せる車はない等でタクシーは断られてしまいました。


 しかし、予約した亀山のホテルに行く事はあきらめるわけにはいかず、かといって降りしきる雪の「回り道の多い旧東海道を庄野宿方面に歩く」のは辛すぎる。
 と言う事で、地図やカメラ等の手持ち品は全てバックに入れ、雪除けの為防寒コートのフードを立て傘を差し、国道一号線に出て1号線を真直ぐ黙々と歩き「加佐登の交差点」で斜め右の道に入り「JR加佐登駅」に到着しました。

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 信綱記念館から「JR加佐登駅」迄は国道1号線で約3km 4000歩強でしたが、既にこの日は28000歩強歩いておりへとへとでしたが、夕方4時頃になってホテルでゆっくりするには自分の足しかないと言う状況におかれ、意地でもと歩きました。

 17時57分の電車に乗り亀山駅に到着し、もう歩く気力は全くなく、ホテルは駅からすぐでしたがタクシーに乗り、16時20分位にホテルにチェックインしました。

ホテルからの雪の状況は下の様でした。
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東海道53次,四日市宿から石薬師宿 その2 [ 東海道五十三次]

 
 ちょっと遅れてしまいましたが、先月の1月26日に東海道五十三次の内、四日市市の「あすなろう鉄道,赤堀駅」から「石薬師宿」迄を歩いて来ました。

 今回は「あすなろう鉄道の赤堀駅」を利用する為、新幹線で名古屋迄行き近鉄の名古屋駅から四日市駅へ。 昨年12月の東海道歩きでは鈴鹿山脈に雪が積もっていましたが、今回の天気予報は夕方鈴鹿山脈から亀山市付近に雪が降るとの事。 不安一杯の天候でした。

そして四日市駅に到着し「あすなろう鉄道」に乗り換え、
 (あすなろう鉄道については前回2月2日のブログを参照願います。)

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ひと駅で10時半頃に赤堀駅に到着。
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 赤堀駅を出て旧東海道を歩き始め、約500m,10分で「大宮神明社」に到着です。
 昔は現在の南高校のある岡山の麓まで海があって、その海辺に舟付明神があった。 舟付明神には天照大御神を伊勢に移す際倭姫命(やまとひめのみこと)が一時お留まりになったとの伝えもありる。 その舟付明神が四百年ほど前に炎上し、当時出来つつあった道路(東海道)にうつってきたのがこのお社です。

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 赤堀駅から1.1kmで「天白川」を渡り約100m、右手に両聖寺(りょうしょうじ)が。
両聖寺の前には四日市市の無形民俗文化財「つんつくおどり」についての説明がありました。

 踊りは、天白川の堤防を固める時に踊ったのが始まりとも、又、信長の武将滝川一益の母が実連寺境内に隠居所を作った時に地築唄に合わせ踊ったとも。
 2020年には発祥400年目を迎える踊りで、大勢の人が手をつなぎながら太鼓や笛に合わせて円陣を作って行く踊りで、現在は8月第2土・日曜に境内で催されるとの事。
ちなみに「つんつく」とは、地固め工事の様子を表しているとの事。

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 天白川から350m、右手に日永神社があり神社境内には東海道いち古い道標があります。
 
 この道標は、日永の追分の神宮遙拝鳥居の傍に立てられていた道標で、正面に「大神宮 いせおいわけ」右側面に「京」左側面に「山田」と記されており、裏面に「明暦二丙申(1656年)三月吉日」と刻まれています。
 追分の神宮遙拝鳥居が建立された時(安永3年,1774年)よりも約百二十年も前であり、東海道における最古の道標としても貴重なものです。
 嘉永2年(1849年)神宮遙拝鳥居の脇に現在の立派な道標が立てられ、この道標は近くの追分神明社の境内に移され、明治40年に追分神明社が日永神社に合祀され、道標も一緒にここに持って来られたものと推定される との事。 

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神社境内 黄緑矢印の先が東海道いち古い道標
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東海道いち古い伊勢追分の道標
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 日永神社から300m右手、民家と民家の境に日永一里塚の石碑が立っていました。
 ここは江戸日本橋から100番目の一里塚。 5m四方高さ2.5mの塚が両側に築かれ西側の塚には榎が植えられていたが明治2年に伐採され塚もなくなったとの事。 100番目と言う区切りの良い一里塚跡としては何とも淋しい限りです。

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 更に400m程歩くと「名残りの一本松」に到着。 この辺りは昔、松並木だった様ですが今はこの一本のみになってしまったとの事。 松の木も1人では淋しいだろうに!
下写真は京に向かっては逆光だったので、江戸方向に向かって撮ってみました。

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 「名残りの一本松」から約700m、古風な建物からハイキング姿をした多くの方々が出てこられたので覗いてみると「東海道日永郷土資料館」との事でした。
 多少疲れていたので中に入りゆっくり休み、 お茶もご馳走になりました。
 尚、日永の追分はまだまだ先と思っていましたが、資料館の方が「すぐそこだよ!」との事で外に出てみると遠目に鳥居(矢印先)の様な物が見えました。

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 で、歩く事200m、日永の追分に到着です。
ここは下写真の様に伊勢神宮方向(黄色矢印,伊勢街道)と 京方向(黄緑矢印,東海道)の分かれ道「追分」で、Y字型の中央の三角地帯は小さな公園の様になっていました。
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 三角地帯に立っている神宮遙拝鳥居は二の鳥居と言われています。
(ちなみに一の鳥居は桑名の揖斐川河原の「七里の渡し跡」公園の鳥居だそうです。)
 ここの鳥居は伊勢神宮式年遷宮に合わせ建て替えられ、現在の鳥居は伊雑宮(いざわのみや)の鳥居を平成28年10月に移設して建てられています。
 伊勢神宮 伊雑宮のページ : http://www.isejingu.or.jp/about/naiku/izawa.html
 尚、神宮遙拝鳥居の両脇には石碑があり、前に書いた日永神社の道標に変わる「立派な道標」は多分右の物だろうと思いますが調査不足で確たる事は?
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神宮遙拝鳥居等について下写真の石碑で説明がなされていました。
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 更に追分の中央には井戸もありました。
 この名水は、 昭和4年地元実業家稲垣末吉さんが、約500m西の丘陵地の麓 泊山(とまりやま)に別荘を建て井戸を掘った所とても良い水が湧き出した為、自費で配管を敷設し日永の追分まで引き、旅人達に提供したとの事。
又、この名水は水質検査が行われ、結果を下写真黄緑矢印の位置に貼られていました。
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 日永の追分をゆっくり見学。 追分を離れる12時半頃には又雪が舞い始め、雪が舞ったり晴れたり曇ったりと非常にあやしい天気が続きました。


 今回1月26日の東海道歩きをまとめ始めた所、どんどん長ったらしくなってしまい、ブログへの投稿も延びのびになってしまっています。 で、区切りの良い日永の追分でいったん区切り近々「その3」を投稿したいと思います。

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東海道53次,四日市宿から石薬師宿 その1 [ 東海道五十三次]

 
 先日、1月26日から四日市から石薬師宿を経て亀山宿方面を目指し歩いて来ました。

 実は昨年12月、三重県の桑名宿から四日市宿迄歩いた時に、少しでも先に進んでおこうと四日市宿から「あすなろう鉄道の赤堀駅」迄を歩いておきました。


 前回12月の東海道五十三次では、四日市市の「黒川本陣」を受け継ぐ「黒川農薬商会」の前を通って「表参道 スワマエ」商店街アーケードを通過し、「近鉄四日市駅」と「JR四日市駅」を結ぶ街路樹のある中央通りに出ます。

写真は中央通りで黄緑矢印先の路地が旧東海道です。
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中央通りから約200m、小説家で文化勲章を受けた丹波文雄さん生誕の「崇顕寺」です。
保育園も併設されており、お寺さんとは思えないつくりです。
  丹波文雄さんの紹介ページ https://ja.wikipedia.org/wiki/丹羽文雄
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 中央通りから1.0kmの所で左方向に曲がり「あすなろう鉄道」と並行して300m程歩き、右の路地を覗くと赤堀駅です。
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 この日は約1.8万歩歩き、前日の3.3万歩の疲労もたまっており、ここで「あすなろう鉄道」に乗って四日市駅に出て帰宅する事にしました。

 あすなろう鉄道はレールの幅が762mmと狭軌(ナローゲージ,JR在来線は1067mm)、
2012年頃には廃線の危機もありましたが、今は官民協力し写真の様な綺麗な外観で車内は両側に2列の座席で、駅や線路も含め清潔感ある鉄道でした。
 又、列車の本数も日永ー近鉄四日市間は通勤時間帯で6本,昼間でも4本もあり、列車の時間を気にせず行動できます。
  あすなろう鉄道の紹介記事 https://ja.wikipedia.org/wiki/四日市あすなろう鉄道

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 12月の時は桑名宿を色々観光した事も有り、自分でもびっくりするほど歩数は伸びましたが、五十三次の進み具合は予定の2/3位でした。

 そんな事も有り、先日1月26日に赤堀駅から石薬師宿・庄野宿経て亀山宿迄を目指して歩く事にしました。

所が大雪に見舞われ、予定の1/3程度に終わってしまいました!!!
その様子は次回のブログにて!

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東海道五十三次, 桑名宿から四日市宿 その3(富田から四日市宿陣屋) [ 東海道五十三次]

 
 昨年12月、桑名宿から四日市宿を経て石薬師宿を目指し早朝出発し、10時頃にJR桑名駅に着きました。 桑名城址等の見学に時間をかけてしまい、1日目は四日市富田迄しか行く事が出来なかった。 せめて予約したホテルのルートイン四日市迄行きたかったのですが!!


 1日目のホテル到着は夕方ほぼ暗くなっており外の景色を見る事が出来なかったが、2日目の朝鈴鹿山脈方向を見ると山は雪に覆われていました。
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2日目は近鉄名古屋線の「川原町駅」から電車に乗り、「近鉄富田駅」に!

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前日タクシーに出会い「歩く気力がプッツン」した"Y字路"迄戻って歩き始めます。

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 歩き始めて100m。 左側に八幡神社があり、境内には「力石」もありました。
 ここの力石は、鎌倉時代頃から主に力比べとして、又、力比べの体力を養う事で健康長寿への信仰を深める為の道具としていた様です。 写真の石はおよそ100kgとの事。

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 力石の八幡神社から260mで右折して更に道なりに歩き650m、桜並木の十四川に到着。
 左を見るとひときわ大きなお寺「善教寺」さんがありちょっと寄って見た。 このお寺さんには鎌倉時代 仁治2年(1241年)の作と言われる国の重要文化財「木造阿弥陀如来立像」があるとの事。
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十四川を渡り次の右路地角に常夜灯があり裏には天保10年(1839)、150年前の作でした。
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 十四川(善教寺)から400m、T字路の突き当りには「新設用水道碑」という石碑と2つの「力石」がありました。
 ここの力石は、明治の中頃村の2ヵ寺の御堂再建の為各所より土台石の奉納があった。 この土台石の中から下写真の石を選び、持ち上げ競い合ったとの事です。 掲示板には「1つは「三十二メ」(32貫,約120kg)、もう1つ(青矢印)は 5貫(約19kg)で子供用だろう」と書かれていた。
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 上の2つの力石から70m程で右折して道なり800m強で「中部陸運局 三重運輸支局 四日市自動車検査場」(何でこんなに長い名前なの,要は四日市車検場)を右に見て歩くと大きな常夜灯(羽津の常夜灯)がありました。
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 四日市の車検場から米洗川を渡り約300mの右側に「八幡延命地蔵尊」がありました。 しっかりした地蔵堂でありながら細かな説明が見つからず帰宅後調べた所、

 ここの地蔵尊は、下の金場延命地蔵尊と同じ石から作られた兄弟地蔵で、もとは羽津村の北の入口(羽津の常夜灯(上写真)の向かい辺り)にこの八幡延命地蔵尊があった様です。 昭和4年(1929年)に八幡地区の住民に依って現在地に移設されたという。 

 昔は、村内に疫病が入らない様にする結界地蔵と言われていたが、江戸時代には旅人の安全祈願や延命祈願が強くなり、延命地蔵尊と呼ばれる様になった。 この地蔵尊の頭巾の下に螺髪があるという珍しいもので、よだれかけの下には阿弥陀如来来迎図が隠れている。

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 下写真は、上記の八幡延命地蔵尊から1.3km先の左側、八幡延命地蔵尊と兄弟地蔵尊の「金場延命地蔵尊」です。 もとは羽津村の南入口(羽津の東海道の南端で二重川にかかる堺橋、今の金場町交差点付近)の結界地蔵であった。 昭和48年(1973年)市道拡幅工事で二重川が埋め立てられた時に、住民の手で現在地に移設された。

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 「八幡延命地蔵尊」から「金場延命地蔵尊」の間1.3kmも飛んでしまったが、この間で「八幡延命地蔵尊」から300mの所に「かわらずの松」がありました。 樹齢200年だそうで、この地区は昔「かわらず(川原須)」と呼ばれており、「かわらずの松」と命名したとの事。 四日市の東海道では日永地区の松とこの松の2本だけになってしまった様です。

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 その他この地区の旧東海道の道路沿いには下写真の様な物が置かれていました。 陶器で出来ているもので、中には明かりも入れられる様になっており、現代の常夜灯です。 この地区が「万古焼」発祥の地の為、陶器で案内板を作られたのだろうか?
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 「八幡延命地蔵尊」から 1.1kmで国道1号線に出て、国道一号線を650m程進み、斜め左の路地に入り約100m、「海蔵川」手前の「三ツ谷一里塚」跡に着きました。
 三ツ谷一里塚の元の位置は今の川の中ほどで、昭和20年代の拡幅工事で川の中に取込まれ、平成13年東海道宿場・伝馬制度制定四百周年を記念して現在地に石碑を立てたとの事。

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 で、右側の国道1号線に戻り海蔵川を渡り直ぐに左折し、上記の一里塚の延長線上の旧東海道に戻ります。 そして約1kmで、歌川広重の東海道五十三次の内の四日市宿として描かれている三滝川です。
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現在の三滝川の橋
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 三滝川を渡り約100mで笹井屋さんに到着します。
 笹井屋さんは元は日永の追分近くで操業。 「なが餅」は1550年頃には評判の銘菓となり現在まで続いています。 笹井屋さんののぼりも随所に立っており1包購入してみました。

 又、下記の記事によると四日市宿の本陣は「・・・札の辻の北角に清水本陣があった」との事で笹井屋さん付近だった様です。 その事をなが餅を購入した時に店員さんに伺ったが全く知らなかった様です。
四日市の本陣に関する記事:http://youjirouwalk.arrow.jp/wordpress/?p=121

所で帰宅後なが餅を食べたが現代では多くの美味しい物があり"それほどでも"といった所。

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 笹井屋さんを出て、2ブロック進み左折して80m、四日市市立中部西小学校校門の脇に「四日市宿陣屋跡」の記念碑があります。
 四日市町は下説明板の様に、慶長8年(1603)から一時期(享保9年(1724)~享和元年(1801)迄の期間のみ大和郡山藩領)を除き、江戸時代を通して天領(幕府領)だった。
 その天領を治める為にここに陣屋を設置していました。 明治維新以降は三重県庁舎等に使われたが、明治9年の伊勢暴動ですべて焼失しました。
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(写真をクリックすると大きな写真になります。)
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 陣屋跡から旧東海道に戻り100m、四日市宿の第二本陣だった「黒川本陣」を受け継ぐ「黒川農薬商会」の前を通って進みます。

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で、黒川農薬さんから150m、「すぐ江戸道,すぐ京いせ道」で有名な道標がありました。
この「すぐ」と言うのは「まっすぐ」の意味だそうです。

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 国道1号線を渡り、諏訪神社の表参道入口でありスワマエ商店街入り口に到着しました。 今回の四日市宿迄の五十三次はここで終点とします。

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 クラシックカー好きの私としては当然の事ながら、街道沿いの右を見たり左を見たり、臆面もなく他人のガレージを除いてきました。

で、見つけた極めつけのクラシックカーはオースチンA50 ケンブリッチ です。
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 もう1つ、クラシックカーではありませんが、下写真には何が写っているか皆さんで考えて見ませんか?
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東海道五十三次, 桑名宿から四日市宿 その2(桑名から富田迄) [ 東海道五十三次]

 
 先日、東海道五十三次の桑名宿から四日市宿を歩く為、早朝家を出てJR桑名駅に10時頃に着き、長島行のバスで田町バス停迄行き、「七里の渡し跡」の公園を回り歩き始めました。 しかし、桑名城跡や春日神社を見学し昼食を取った結果、約8000歩も歩いたにもかかわらず、五十三次は「七里の渡し跡」から約100mしか進んでいませんでした。


 と言う事で「午後は頑張って歩かないと!」と決意し歩き始めました。

 昼食を食べた「川市」さんから100m弱の所に「通り井」の跡がありました。
 桑名の地下水は海水が混じり一般的には利用できない為、町屋川から水を引き町内の主要道路に水道を造り所々に道路の中央に舛を開け、一般の人が真水を利用できる様にしました。
 (写真をクリックすると大きく表示します)
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 「七里の渡し跡」から約400m、東海道五十三次を模した「歴史を語る公園」を左に見ながら、南大手橋迄歩きます。 南大手橋は「歴史を語る公園」の終点でもあります。
「歴史を語る公園」の始点日本橋      「歴史を語る公園」の終点三条大橋
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 南大手橋の交差点を右折し100m程進むと「石取会館」です。
桑名市の石取祭りに関する色々な展示やイベントを紹介する施設です。
石取祭りのホームページ:http://isidori.jp/index.html
石取会館についてのページ:http://kanko.city.kuwana.mie.jp/machi/ishidorikaikan/
(写真をクリックすると大きく表示します)
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上右の様に石取会館自体が登録有形文化財になっており、館内には江戸時代末期に作られた祭車が展示され、奥の黄緑矢印先には祭りの太鼓を練習している方がおられました。

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 更に歩き、南大手橋の交差点から200m、京町公園です。
ここは、京町の西端の東海道上に京町門があり、その南側には番所がある「京町見附」でした。 下写真の黄緑矢印の先に京町見附の説明が。

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 「京町見附跡」を左折し真っ直ぐ350mで「吉津屋見附跡」です。
 京町見附跡と同様吉津屋門(後に鍛治町門)があり番所もありました。 又、ここには枡形も残っており日常の道路として整備・使用されています。

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 「吉津屋見附跡」の枡形を回って、おもちゃの「いもや本店」前を右折し700m、「七曲り見附跡」ですが、これが見つからず行ったり来たりしました。 「七曲り見附跡」は下写真日進小学校の黄緑矢印先、体育館らしき建物の門を入って左側にありました。
矢印先には七曲り見附の説明板
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 やっと見つけた「七曲り見附跡」を後にして、シーボルトも見学したという「広瀬鋳物工場跡」を是非見て見たいと思っていましたが見つからず、「天武天皇社」を右に見ながら先に進むと鋳物の街らしく右手には鐘の鋳物屋さんがありました。
 「国道1号線」を横切り、「七曲り見附跡」から700mでT字路に突き当たり平成3年に再建されたという「火の見櫓」があった。 説明板(下写真)には「矢田立場」について書かれていました。

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 「矢田立場の火の見櫓」から1.4kmで員弁川(町屋川)に突き当たり、大きな常夜灯がありました。 この常夜灯は「伊勢両宮常夜燈」と言い文政元年(1818年)に東海道の道しるべとして、又伊勢神宮への祈願を兼ねて桑名・岐阜の材木商によって寄進されたもので石工は桑名の根来市蔵との事。
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 で、常夜灯の交差点で左に曲がり、国道1号線の「町屋橋」を渡ります。
橋から右手の鈴鹿山脈を見ると前日の寒波で雪が積もっていました。 実は富士山の雪景色以外では今季初の雪景色です。 この時既に15時を回っており、さむ~~~!!!

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 町屋橋を渡り直ぐに右折し約80mで左折、員弁川(町屋川)対岸の「伊勢両宮常夜燈」の延長線上の旧東海道に戻ります。 道路の状況や常夜灯等から昔は「伊勢両宮常夜燈」の延長線に町屋橋が架かっていた事が想像できます。
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 町屋橋から900m位の所に一里塚の石碑があるはずでしたが見逃し「近鉄 伊勢朝日駅」脇の踏切を過ぎ、更に歩き約1.7kmで「浄泉坊」に到着。 「浄泉坊」は徳川家にゆかりのある桑名藩主の奥方の菩提寺だったので、屋根等に葵の御門が入っていました。
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 16時を回り薄暗くなり始めただただ前を向いて歩き、町屋橋から約3.0km。 前方に「伊勢湾岸自動車道」の高架が見え、高架手前の交差点の右の方を見ると「多賀大社常夜燈」があった。 

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「多賀大社常夜燈」の常夜灯から約10分で「松寺の立場跡」に出ました。
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 朝明川を渡り多賀大社常夜燈から1.4km、三岐鉄道とJR関西本線と一般道の3つが交差する珍しい踏切を渡って、
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 多賀大社常夜燈から2.1km、富田の一里塚に到着。
この時17時直前、薄暗くなりカメラでの撮影も厳しくなり始め、疲れも出て来て「もう限界かなァ~」と思う様になりました。
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 頑張って富田の一里塚から150m位進んだものの、前方に空車のタクシーが! タクシーを見た瞬間プッツンと糸が切れ「手をあげて」タクシーを呼んでしまいました。
で、予約してあったホテルに!!!
 
 この日の午前中は自宅からで11000歩,桑名宿内は8000歩。 午後は17000歩。
 寄り道の多い私は25000歩も歩いたにもかかわらず、「七里の渡し跡」から9.5kmしか進んでいませんでした。



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東海道五十三次 桑名宿から四日市宿 その1(桑名宿) [ 東海道五十三次]

   
 先日、東海道五十三次の内の桑名宿から四日市宿を歩いて来ました。

 東海道五十三次を歩くのは、鳴海宿から宮宿を歩いた今年の6月下旬以来です。
  鳴海宿から宮宿の記事 https://hisashi1946.blog.so-net.ne.jp/2018-07-19 
             https://hisashi1946.blog.so-net.ne.jp/2018-07-27
 尚、宮宿から桑名宿迄は3月10日に「堀川まちネット」さんの船で渡りました。
             https://hisashi1946.blog.so-net.ne.jp/2018-03-15
 (東海道五十三次が制定された1601年頃の宮宿から桑名宿は、「七里の渡し」と言う
  船による海上ルートが正規でした。)

 この「七里の渡し」ルートは、以前は旅行会社によるツアーもあった様ですが、今は「有料での船の運航は役所の許可が下りない」との事で、NPO法人「堀川まちネット」による「東海道 七里の渡し船旅 学習会(要寄付5000円)」が唯一の航路となってしまった様です。 
 堀川まちネットのホームページ : http://horikawamachi.net/

歌川広重の桑名宿
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 で、先日は早朝家を出てほぼ10時に桑名駅に着き、駅から長島行のバスに乗り田町で下車、歩いて堀川まちネットの船から下りた揖斐川(いびがわ)の堤防に。

この辺は揖斐川と並行して長良川が流れており、長良川の河口堰も見えます。
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揖斐川の堤防を下流方向に少し歩き「七里の渡し跡」に。 後方に蟠龍櫓も見えます。
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揖斐川河原の「七里の渡し跡」公園から下り、ここから五十三次が再開となります。
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公園から出て右に曲がり「大塚本陣」跡の明治8年創業船津屋さんをパチリ。
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船津屋さんの右隣りは脇本陣「駿河屋」跡、明治38年創業の老舗料理旅館の山月さん。
桑名宿の脇本陣は4軒有って駿河屋が最も格式が高かったとの事。
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山月さんから約100mの駐車場脇に舟会所・問屋場跡の説明板が(黄緑矢印先)。
舟会所は宮宿や佐屋へ渡る人の為に渡船の手配をし渡船料金を受け取る所で、問屋場は旅をする人の為に人足や馬を手配する所ですが、今はその場所は定かでないとの事。
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 山月さんから約200mで北大手橋へのT字路に。
 是非桑名城跡に行ってみたいと思っていたのでこの交差点を左折。

北大手橋を渡り、
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左や右に曲がり「柿安本店」の手前に伊勢桑名藩初代藩主「本多忠勝」の銅像がありました。
忠勝は徳川氏の家臣で、上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主だった。
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 本多忠勝の銅像の前から右側の九華公園に入り、城跡は一番奥の鎮國守國神社の前に桑名城跡の石碑があり、神社の東側に桑名城天守跡の記念碑(黄緑矢印)がありました。
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天守の碑
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天守跡を見た後は公園の南側に出て南大手橋を渡り旧東海道に戻り、春日神社(桑名宗社)に。

春日神社の銅の鳥居の左には「しるべいし」(黄緑矢印先)もありました。
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そして鳥居脇の白い掲示板には「鳥居」や「しるべいし」について説明されていました。
   (写真をクリックすると大きく表示されます)
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鳥居をくぐると重厚な楼門です。
 天保4年(1833)、松平定永によって寄進された門で、正面左右には左大臣・右大臣、裏側には金剛力士像が安置され、その姿の美しさは日本一と言われたそうですが、昭和20年の空襲で焼失。 平成7年の七百年祭記念事業にて半世紀ぶりに再建されたそうです。
春日神社(桑名宗社)のホームページ:http://www.kuwanasousha.org/

桜門
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境内
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 で、境内右の受付で御朱印をお願いした所、桑名宗社奉賛会の行事の為書く人手がなく「既に朱印を押した紙で」との事。 「その代わりと言っては何ですが、宝物殿の「村正」と家康の孫千姫が奉納した「家康座像」を見て行って下さい」との事でした。 尚、写真撮影はご遠慮下さいとの事。
 で、宝物殿に行くと玄関に「家康座像」が展示されており、宝物殿中央には一振りの刀が。 刀を見ると「春日大明神」「勢州桑名郡増田庄藤原朝臣村正作」と彫られており、これが「妖刀村正伝説のひとつか!」とじっくり見させて頂きました。

「家康座像」についての桑名市の桑名市埋蔵文化財整理所のページ(写真付き)
     http://bunka.city.kuwana.mie.jp/html/bunkazai/100.html
「村正」についての桑名市の桑名市埋蔵文化財整理所のページ(写真付き)
     http://bunka.city.kuwana.mie.jp/html/bunkazai/058.html



 思いがけないお宝を見る事が出来、早くも"五十三次歩き"は達成感・満足感一杯!

 で、時計を見ると昼食時間。 桑名での食事は「焼き蛤」をと思いながら旧東海道の街道沿いを歩きながら探した所、既に行列のお店だったり、敷居の高そうなお店だったりでなかなか適当なお店が見つからず、「うどんの川市」さんに行きつきました。

 食べたのは「はまぐりの小天丼」と「はまぐりの味噌煮込みうどん」のセットです。
お店の中でお会いした地元の方は「ここを選んだのは正解。有名ですし本当に美味しいですよ。 ただセットは量があるから食べきれるかどうか?」との事。

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 地元の方が言われた通り 美味しかった。
 特に味噌煮込みは名古屋の煮込みに負けません!!!
 はまぐりの天ぷらも珍味で美味しかった!!!

 食べきりお腹が一杯になり休息も十分取れて万歩計を見ると約8000歩。
 次の計画はと地図を見ると、
  えエッ! 「うどんの川市」さんは「七里の渡し跡」から約100m。

 約8000歩も歩いたのに、旧東海道歩きは100mしか進んでいませんでした!!!


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東海道五十三次 鳴海宿(名鉄の桜駅)から宮宿 その2 [ 東海道五十三次]

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 昨年3月頃に再発した腰痛も大分回復し、先日名古屋市緑区の有松から鳴海宿を経て宮宿迄を歩きました。 前回のブログでは鳴海宿から名鉄の桜駅迄をレポートしました。
で、今回は名鉄の桜駅から宮宿迄をレポートします。
有松から鳴海宿迄のページ   https://hisashi1946.blog.so-net.ne.jp/2018-07-10
鳴海宿から名鉄桜駅迄のページ https://hisashi1946.blog.so-net.ne.jp/2018-07-19


 熱田区伝馬町のホテルを出て名鉄の神宮前駅から桜駅に戻り9時頃から歩き始めました。

 桜駅から350m位の所の「地蔵院(湯浴地蔵)」の前に東海道と書いた石碑があり、その石碑には「鎌倉街道」とも書いてありました。
(神奈川県には「鎌倉街道」は多数ありますが、名古屋にまであるとはちょっとびっくり。)

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地蔵院から約250m歩くと右側に「熊野三社」の鳥居と「東海道の石碑」が。

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 更に100m程歩くと左側の料理屋「いずたま」さんの前の「東海道」の石碑には「山崎の長坂」とあり反対の面には「山崎城跡・安泰寺」と記されていました。

 この付近に住んでおられるお年寄りの方に教えて頂いたのですが、この道路の下には昔の「鉄道の線路」が埋まっているのとの事。 この鉄道は、当時小高い丘になっていた山崎城址を切り崩して鉄道を通す為の合意が出来ず、仮設した鉄道との事でした。
(帰宅後色々とネット検索してみましたが仮設鉄道の確証は見つからなかった。 ただ、教えてくれた方は道路工事の時に線路を見たそうで、線路がある事は間違いないと思います。)

この道路の雰囲気からはとても鉄道が埋まっている様には見えません。

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 「いずたま」さんから約300mで山崎川(下段に写真あり)を渡り、山崎川から更に600mで名古屋高速3号大高線との交差点「松田橋」に出ました。 高速の陸橋下に小さな公園がり「昔の松田橋の親柱を使い松田橋を復元した」とありました。
 尚、私には下右写真の下側の古地図を今の地図に当てはめて見る事が出来ず残念で今も気になっています。(写真をクリックすると大きく表示されます。)

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 松田橋の交差点で国道1号線と合流し、約350m歩き「内浜交差点」で国道1号線の左側側道に入り更に約350m、JRの東海道本線の踏切を渡り、踏切と隣接した交差点を斜め左に入って行きます。 踏切から約200m、新堀川の「熱田橋」に到達。

 熱田橋ではボランティアで水質検査をされている方々(下左写真歩道中央の方々,緑矢印の先)に出会いました。
 少し前に渡った山崎川もこの新堀川も濁っており、川底は真っ黒(ヘドロとの事)。
今回で日本橋から愛知県迄を完歩しましたが、この二つの川が最も汚い様に感じた。
私が歩いた季節や天候,潮の満ち引き等の巡り合わせが悪かったせいなのか??? 

熱田橋                          水質検査をしている方々
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熱田橋の手前1.4km,呼続の近くの山崎川。 白く濁り、川底は真っ黒!
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 新堀川の熱田橋から約200m、名鉄常滑線のガードをくぐると「伝馬街園」と言う小さな公園があり、宮地区を説明した掲示板(下写真黄色矢印)がありました。
青矢印の所は下記の「姥堂」,緑矢印が今回宿泊したエクセルイン名古屋熱田ホテル

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 伝馬街園から約50m、姥堂に裁断橋址と都々逸発祥之地の石碑がありました。
下写真の2階には姥像の複製(戦災で焼失後、1/2の大きさで複製)が安置されています。

「裁断橋」は、ここのすぐ東に流れていた精進川に架かっており、「裁断橋」を渡ると「宮宿」だったそうです。
 「裁断橋」の由来は、天正18年(1590年)、18歳になる我が子堀尾金助を小田原の陣で亡くし、その菩提を弔う為に母は橋の架け替えを行った。 33回忌に再び架け替えを志したが母はそれを果たせず亡くなり、養子が遺志を継ぎ元和8年(1622年)に完成した。
 大正15年には川は埋立られ橋の擬宝珠(ぎぼし)は道路わきに保管されていたが、今は市指定の文化財として市の博物館で保管。 下写真黄緑矢印の先が複製の擬宝珠。

ウイキペディアによると、
 裁断橋の擬宝珠に彫られた仮名書きの銘文は、日本女性三名文のひとつに数えられている。
「てんしやう十八ねん二月十八日おだはらへの御ぢん、ほりをきん助と申す十八になりたる子をたゝせてより、又ふためとも見ざるかなしさのあまりに、いま此はしをかける事、はゝの身にはらくるいともなり、そくしんじやうぶつ給へ、いつがんせいしゆんと、後のよの又のちまで、此かきつけを見る人、念仏申給へや、卅三年のくやう也 」
ウイキペディアのページ https://ja.wikipedia.org/wiki/裁断橋
下記のページに複製擬宝珠の写真がありました。
   www.geocities.jp/onriedo_gongujodo/saidanbashi-photopage01.html

 都々逸発祥の石碑は下写真黄色矢印の先で、宮前の飯盛り女の中から後に「どどいつ節」が生まれたとの事で江戸でも評判になるほど広く愛唱されたと言われる。
都々逸についてのウイキペディアのページ https://ja.wikipedia.org/wiki/都々逸

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姥堂と裁断橋の説明板 写真をクリックすると大きく表示します。
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 実は、姥堂の前が宿泊したエクセルイン名古屋熱田ホテルでしたので、ホテルに再び入りクーラーのしっかり効いたロビーでゆっくり休息させて頂きました。


 ホテルで英気を養って、再スタートです。

 姥堂前の道を真っ直ぐに姥堂から400m、突き当りにほうろく地蔵がありました。
(ほうろく(焙烙)とは:茶葉・豆・ごま・塩等をいるための素焼きの浅く丸い皿形の土鍋。)
右写真がここのほうろく地蔵の由来です。
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 ほうろく地蔵の前には、熱田伝馬町の西端に当たるそうで、東海道と美濃路(又は佐屋路)の分岐点を示す石碑(黄緑矢印)がありました。 詳細は下右の説明板を参照願います。

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 ほうろく地蔵の前を左折して直ぐに国道247に到着。 歩道橋を渡って、

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(うな丼の様な)ひつまぶしで有名な「あつた蓬莱軒本店」を横目に見ながら歩く事200m、
今回の終点であり、愛知県最後の旧東海道 宮宿の「7里の渡し」に到着です。

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 熱田神宮の西門から神宮を横切る様に歩き、名鉄名古屋本線の神宮前駅から帰宅の途に!
熱田神宮西門
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 今回で愛知県内の旧東海道を完歩!!!

 秋からは三重県だ!!!

 たまの旅行の様にその地域毎の名所旧跡を見学し、その地方の美味しいものを食べて!!!


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東海道五十三次 鳴海宿から宮宿 その1 [ 東海道五十三次]

 
 昨年3月頃に再発した腰痛も大分回復し、先日名鉄名古屋本線の有松から鳴海宿を経由し宮宿迄を歩き、下記ページで有松から鳴海宿迄をレポートしました。
で、今回は鳴海宿から名鉄の桜駅迄です。
 前回の記事 https://hisashi1946.blog.so-net.ne.jp/2018-07-10


 歌川広重の東海道五十三次 宮宿
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 有松駅に11時頃到着し、鳴海宿本陣跡に午後1時過ぎに到着。 そして鳴海宿最後の「丹下町常夜灯」を13時半頃に通過。 長期の腰痛療養で体力は減退、疲労を感じ始めましたが中断せず宮宿を目指し自分に鞭打って歩き続けます。


 で、いきなり自動車修理工場内の旧車を発見。 立ち寄りお店の方と20分位旧車談議!
2代目コロナマークⅡ(1972年~1976年)
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 大好きな旧車談議をした事で、軽くなった足取りで先を急ぎます。

 丹下町常夜灯から約500m、右側に鉾ノ木貝塚と書いた掲示板を見つけました。
縄文時代早期から前期にかけての貝塚との事で、貝層はハイガイを主としており、土器も出土したとの事。 上層土器が鉾(ほこ)の形をしていた為、その型式をとらえ「鉾ノ木式」と呼ばれているとの事でしたが、狭い範囲だったし草位刈ってほしかったな!
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 で、上写真左側の路地ににた次の路地を上って行くと「千句塚公園」です。
下写真掲示板の様に「芭蕉が生前に立てられた唯一の碑「千鳥塚」」があります。
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 千句塚公園の下の交差点「三王山」から1km強歩きやっと「笠寺一里塚」に出ました。
ここの立派な榎は、超大きな石付き盆栽の様に盛り土を抱え込む根張りがすごかった。
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 笠寺一里塚から400m「笠寺観音」正式名「天林山 笠覆寺(りゅうふくじ)」に到着。

ウイキペディアによると、
 寺伝によれば、天平5年(733年、一部文書には天平8年-736年)、僧・善光(または禅光)が浜辺に打ち上げられた流木を以て十一面観音像を彫り、現在の南区粕畠町にその像を祀る天林山小松寺を建立したのが始まりであるという。

 その後 1世紀以上を経て堂は朽ち、観音像は雨露にさらされるがままに。 旅の途中で通りかかった藤原兼平(875年-935年)が、雨の日にこの観音像を笠で覆っていた娘を見初め、都へ連れ帰り玉照姫と名付け妻とした。 この縁で兼平と姫により現在の場所に観音像を祀る寺が建立され、笠で覆う寺即ち笠覆寺(りゅうふくじ)と名付けられたという。 笠寺の通称・地名等もこの寺院名に由来する。
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仁王門には立派な彫り物、勇壮な仁王様がある。
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本堂
本尊の十一面観音像は秘仏で、開帳は8年毎との事(最近の開帳は2014年4月)。
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鐘楼や人質交換之碑等他の各施設は前回ページの「名古屋市南区の笠寺観音」を参照願います。 前回ページ https://hisashi1946.blog.so-net.ne.jp/2018-07-15


 笠寺観音でゆっくり見学と休息をした後、西門から出て旧東海道歩きに戻りました。

 笠寺を出て100m弱、「笠寺西門」交差点には「笠寺の歴史」を記した石碑がありました。 残念ながら扇形の上の銅板は腐食で読む事が出来ませんでしたが、下の文字板は下写真の様に充分に読めました。
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「笠寺の歴史」を記した文字板     写真をクリックすると大きく表示します。
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 「笠寺西門」の交差点を通過し、すぐに名鉄名古屋本線の踏切を渡り約60m、小さな交差点を右折しまっすぐに約500m歩き、「東海道の石碑」と共に赤い鳥居,そして中では高さ10mはゆうに超えるかと思われる大きなカラマツ(だったかな?)の木を剪定していましたので見学、更に中に入って見ました。
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 更に奥に進むと、中には「長楽寺」の看板があり、地図を見ると「富部神社」とあり、神社の社の提灯には「清水稲荷大明神」と! 何が何だか分からなくなりながらもお稲荷さんにお参りし、休息!(休んでばっかり! だって病み上がりみたいなもんだもん!!)
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 で、約200m歩き名鉄名古屋本線の桜駅入り口で何の躊躇もなく右に曲がり、「桜駅」から電車に乗りホテルのある「神宮前」に。
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 更に歩く気力は無く、タクシーで伝馬町(てんまちょう)のホテル「エクセルイン名古屋熱田」に!
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 ホテルでひと寝した後、「煮込みうどん」か「名古屋コーチン」を食べたくホテルの方にお伺いし一路地下鉄で「栄駅」から「三蔵通本町」交差点の「山本屋本店」に。

で、「名古屋コーチン入り味噌煮込みうどん」を食べました。
美味しかったのですが、岡崎市の「角久さんの食堂で食べた味噌煮込みうどん」の方が美味しかった。 八丁味噌屋さんの宣伝用の様なお店と比較する事に無理があるのかも!!!
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東海道五十三次 有松から鳴海宿 [ 東海道五十三次]

 
 先日、東海道五十三次の内名古屋市有松から宮宿迄を歩いてきました。

 実は昨年3月に「腰椎脊柱管狭窄症」で、腰痛再発となりほとんど歩けなくなりました。
 (2011年2月に椎間板ヘルニアで腰痛となり、東海道五十三次は2年半中断しました。)
 そこで病院の「整形外科とリハビリ」に5ヶ月通い多少改善したものの楽に歩く事は出来ず、リハビリの健康保険扱いの期限も超え、今はその病院に併設された「メディカル フィットネス」に通って8ヶ月目になります。
 「メディカル フィットネス」は「コーチの指導によるストレッチや温水プールでのウオーキング」で、腰痛は大幅に改善。 病院の痛め止めを飲みながらだったら普通の生活が出来る様になり、腰痛を気にせず歩く事が出来る様になりました。


 そんな事から3月に知立宿から鳴海宿を目指しましたが、体力の低下が激しく有松迄で中断。 今回、有松から鳴海宿を経て宮宿迄を歩く事にしました。
で、今回はその内の有松から鳴海宿迄をレポートします。
 知立宿~有松のレポートは右記 https://hisashi1946.blog.so-net.ne.jp/2018-03-23
                https://hisashi1946.blog.so-net.ne.jp/2018-03-26
 有松の街並みレポートは https://hisashi1946.blog.so-net.ne.jp/2017-06-10
 織田信長と今川の桶狭間の合戦跡は
             https://hisashi1946.blog.so-net.ne.jp/2017-05-27

歌川広重の東海道五十三次「鳴海宿」
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 で、先日6時半に家を出て、新幹線・名鉄名古屋本線と乗り継ぎ11時頃有松駅に到着。 

 今回のスタート地点である名古屋第二環状自動車道と旧東海道(県道222号線)との立体交差点を目指し線路沿いを歩きます。
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途中、旧家に挟まれた趣のある路地を通って、
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今回のスタート地点、江戸から87里(348km)の「有松一里塚」に到着。
(有松一里塚は現在地あたりだった様ですが、大正13年に民間に払い下げられ消滅してしまったが、歴史ある街並み復活を目指しこの地に平成24年に再建された。)
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 有松一里塚から1km強で平部北の交差点にある「平部町常夜灯」に出ました。 ここからが鳴海宿となります。 この常夜灯には「文化三丙寅(1806年)正月と刻まれており、長く人々の安全を願う歴史ある常夜灯です。
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常夜灯から約10分、扇川の手前70m位の所に下の様なモニュメントが、
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で、扇川を渡ると右に瑞泉寺がありお参り。 門前には下の言葉が掲示されており、簡単な言葉ながら「日常の事から心の悩み等まで当てはまる言葉」と感銘しました。
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 更に県道222号を進むと相原町と本町の境界に「曲尺手(かねんて)」がありました。
(曲尺手は道路をクランク状に曲げた所の事で、宿場に賊が押し入った時賊はクランク状に曲がって走らざるを得ず走る速度を落とす事が出来ます。 又、大名行列で大名同士がかち合いそうになった時、格式の低い大名が休息をよそおい寺等に退避、クランク状道路が陰となり格上の大名を見る事無く緊急避難できます。)
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 鳴海の「曲尺手」から約200m、本町交差点を右折して50m位の所に「高札場」が。
(高札場(こうさつば・たかふだば)は、奈良時代頃から明治時代初期迄一般法令や基本的法令を板に記して、宿場等人の集まる場所に掲示して民衆に周知させる場所です。)
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高札場には下の様な説明板がありました。(写真をクリックすると拡大します。)
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 高札場の斜め向かいの誓願寺には「芭蕉翁」の碑があります。
この碑は芭蕉が没した翌月如意寺に建てられたものを芭蕉の門下下里知足(しもさとちそく)の菩提寺であったこの誓願寺に移された。 芭蕉が亡くなられた(1694年10月12日)翌月に建てられた碑で、芭蕉の碑としては最古の供養塔との事。「芭蕉堂」の南東にあります。
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芭蕉堂と緑石の供養塔
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 本町交差点に戻り県道222号を50m強歩くと左側に綺麗な「山車蔵」があり、そこには「鳴海宿本陣跡」との表示がありました。 愛知県には本当に多くの山車があります。

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 (写真をクリックすると大きく表示されます。)
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 本陣跡から約100m歩き作町交差点を道なり右方向に曲がり、更に歩く事700m位の所の右側に「丹下町常夜灯」がありました。 この常夜灯は「鳴海宿の西の入り口」に建てられた様で、東から見ると鳴海宿の終点と言っていいのかも。
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 で今回、思いがけず下写真の様な車を10分弱の間に各々見る事が出来ました。 お互いのオーナーさんは承知しているのでしょうかね!

ニッサンマーチベースの車
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オリジナルのフォルックスワーゲン
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 次回は「鳴海宿から宮宿」をレポートしたいと思います。

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