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東海道五十三次, 桑名宿から四日市宿 その3(富田から四日市宿陣屋) [ 東海道五十三次]

 
 昨年12月、桑名宿から四日市宿を経て石薬師宿を目指し早朝出発し、10時頃にJR桑名駅に着きました。 桑名城址等の見学に時間をかけてしまい、1日目は四日市富田迄しか行く事が出来なかった。 せめて予約したホテルのルートイン四日市迄行きたかったのですが!!


 1日目のホテル到着は夕方ほぼ暗くなっており外の景色を見る事が出来なかったが、2日目の朝鈴鹿山脈方向を見ると山は雪に覆われていました。
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2日目は近鉄名古屋線の「川原町駅」から電車に乗り、「近鉄富田駅」に!

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前日タクシーに出会い「歩く気力がプッツン」した"Y字路"迄戻って歩き始めます。

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 歩き始めて100m。 左側に八幡神社があり、境内には「力石」もありました。
 ここの力石は、鎌倉時代頃から主に力比べとして、又、力比べの体力を養う事で健康長寿への信仰を深める為の道具としていた様です。 写真の石はおよそ100kgとの事。

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 力石の八幡神社から260mで右折して更に道なりに歩き650m、桜並木の十四川に到着。
 左を見るとひときわ大きなお寺「善教寺」さんがありちょっと寄って見た。 このお寺さんには鎌倉時代 仁治2年(1241年)の作と言われる国の重要文化財「木造阿弥陀如来立像」があるとの事。
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十四川を渡り次の右路地角に常夜灯があり裏には天保10年(1839)、150年前の作でした。
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 十四川(善教寺)から400m、T字路の突き当りには「新設用水道碑」という石碑と2つの「力石」がありました。
 ここの力石は、明治の中頃村の2ヵ寺の御堂再建の為各所より土台石の奉納があった。 この土台石の中から下写真の石を選び、持ち上げ競い合ったとの事です。 掲示板には「1つは「三十二メ」(32貫,約120kg)、もう1つ(青矢印)は 5貫(約19kg)で子供用だろう」と書かれていた。
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 上の2つの力石から70m程で右折して道なり800m強で「中部陸運局 三重運輸支局 四日市自動車検査場」(何でこんなに長い名前なの,要は四日市車検場)を右に見て歩くと大きな常夜灯(羽津の常夜灯)がありました。
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 四日市の車検場から米洗川を渡り約300mの右側に「八幡延命地蔵尊」がありました。 しっかりした地蔵堂でありながら細かな説明が見つからず帰宅後調べた所、

 ここの地蔵尊は、下の金場延命地蔵尊と同じ石から作られた兄弟地蔵で、もとは羽津村の北の入口(羽津の常夜灯(上写真)の向かい辺り)にこの八幡延命地蔵尊があった様です。 昭和4年(1929年)に八幡地区の住民に依って現在地に移設されたという。 

 昔は、村内に疫病が入らない様にする結界地蔵と言われていたが、江戸時代には旅人の安全祈願や延命祈願が強くなり、延命地蔵尊と呼ばれる様になった。 この地蔵尊の頭巾の下に螺髪があるという珍しいもので、よだれかけの下には阿弥陀如来来迎図が隠れている。

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 下写真は、上記の八幡延命地蔵尊から1.3km先の左側、八幡延命地蔵尊と兄弟地蔵尊の「金場延命地蔵尊」です。 もとは羽津村の南入口(羽津の東海道の南端で二重川にかかる堺橋、今の金場町交差点付近)の結界地蔵であった。 昭和48年(1973年)市道拡幅工事で二重川が埋め立てられた時に、住民の手で現在地に移設された。

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 「八幡延命地蔵尊」から「金場延命地蔵尊」の間1.3kmも飛んでしまったが、この間で「八幡延命地蔵尊」から300mの所に「かわらずの松」がありました。 樹齢200年だそうで、この地区は昔「かわらず(川原須)」と呼ばれており、「かわらずの松」と命名したとの事。 四日市の東海道では日永地区の松とこの松の2本だけになってしまった様です。

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 その他この地区の旧東海道の道路沿いには下写真の様な物が置かれていました。 陶器で出来ているもので、中には明かりも入れられる様になっており、現代の常夜灯です。 この地区が「万古焼」発祥の地の為、陶器で案内板を作られたのだろうか?
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 「八幡延命地蔵尊」から 1.1kmで国道1号線に出て、国道一号線を650m程進み、斜め左の路地に入り約100m、「海蔵川」手前の「三ツ谷一里塚」跡に着きました。
 三ツ谷一里塚の元の位置は今の川の中ほどで、昭和20年代の拡幅工事で川の中に取込まれ、平成13年東海道宿場・伝馬制度制定四百周年を記念して現在地に石碑を立てたとの事。

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 で、右側の国道1号線に戻り海蔵川を渡り直ぐに左折し、上記の一里塚の延長線上の旧東海道に戻ります。 そして約1kmで、歌川広重の東海道五十三次の内の四日市宿として描かれている三滝川です。
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現在の三滝川の橋
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 三滝川を渡り約100mで笹井屋さんに到着します。
 笹井屋さんは元は日永の追分近くで操業。 「なが餅」は1550年頃には評判の銘菓となり現在まで続いています。 笹井屋さんののぼりも随所に立っており1包購入してみました。

 又、下記の記事によると四日市宿の本陣は「・・・札の辻の北角に清水本陣があった」との事で笹井屋さん付近だった様です。 その事をなが餅を購入した時に店員さんに伺ったが全く知らなかった様です。
四日市の本陣に関する記事:http://youjirouwalk.arrow.jp/wordpress/?p=121

所で帰宅後なが餅を食べたが現代では多くの美味しい物があり"それほどでも"といった所。

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 笹井屋さんを出て、2ブロック進み左折して80m、四日市市立中部西小学校校門の脇に「四日市宿陣屋跡」の記念碑があります。
 四日市町は下説明板の様に、慶長8年(1603)から一時期(享保9年(1724)~享和元年(1801)迄の期間のみ大和郡山藩領)を除き、江戸時代を通して天領(幕府領)だった。
 その天領を治める為にここに陣屋を設置していました。 明治維新以降は三重県庁舎等に使われたが、明治9年の伊勢暴動ですべて焼失しました。
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(写真をクリックすると大きな写真になります。)
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 陣屋跡から旧東海道に戻り100m、四日市宿の第二本陣だった「黒川本陣」を受け継ぐ「黒川農薬商会」の前を通って進みます。

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で、黒川農薬さんから150m、「すぐ江戸道,すぐ京いせ道」で有名な道標がありました。
この「すぐ」と言うのは「まっすぐ」の意味だそうです。

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 国道1号線を渡り、諏訪神社の表参道入口でありスワマエ商店街入り口に到着しました。 今回の四日市宿迄の五十三次はここで終点とします。

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 クラシックカー好きの私としては当然の事ながら、街道沿いの右を見たり左を見たり、臆面もなく他人のガレージを除いてきました。

で、見つけた極めつけのクラシックカーはオースチンA50 ケンブリッチ です。
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 もう1つ、クラシックカーではありませんが、下写真には何が写っているか皆さんで考えて見ませんか?
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