東海道五十三次 有松から鳴海宿 [ 東海道五十三次]
先日、東海道五十三次の内名古屋市有松から宮宿迄を歩いてきました。
実は昨年3月に「腰椎脊柱管狭窄症」で、腰痛再発となりほとんど歩けなくなりました。
(2011年2月に椎間板ヘルニアで腰痛となり、東海道五十三次は2年半中断しました。)
そこで病院の「整形外科とリハビリ」に5ヶ月通い多少改善したものの楽に歩く事は出来ず、リハビリの健康保険扱いの期限も超え、今はその病院に併設された「メディカル フィットネス」に通って8ヶ月目になります。
「メディカル フィットネス」は「コーチの指導によるストレッチや温水プールでのウオーキング」で、腰痛は大幅に改善。 病院の痛め止めを飲みながらだったら普通の生活が出来る様になり、腰痛を気にせず歩く事が出来る様になりました。
そんな事から3月に知立宿から鳴海宿を目指しましたが、体力の低下が激しく有松迄で中断。 今回、有松から鳴海宿を経て宮宿迄を歩く事にしました。
で、今回はその内の有松から鳴海宿迄をレポートします。
知立宿~有松のレポートは右記 https://hisashi1946.blog.so-net.ne.jp/2018-03-23
https://hisashi1946.blog.so-net.ne.jp/2018-03-26
有松の街並みレポートは https://hisashi1946.blog.so-net.ne.jp/2017-06-10
織田信長と今川の桶狭間の合戦跡は
https://hisashi1946.blog.so-net.ne.jp/2017-05-27
歌川広重の東海道五十三次「鳴海宿」
で、先日6時半に家を出て、新幹線・名鉄名古屋本線と乗り継ぎ11時頃有松駅に到着。
今回のスタート地点である名古屋第二環状自動車道と旧東海道(県道222号線)との立体交差点を目指し線路沿いを歩きます。
途中、旧家に挟まれた趣のある路地を通って、
今回のスタート地点、江戸から87里(348km)の「有松一里塚」に到着。
(有松一里塚は現在地あたりだった様ですが、大正13年に民間に払い下げられ消滅してしまったが、歴史ある街並み復活を目指しこの地に平成24年に再建された。)
有松一里塚から1km強で平部北の交差点にある「平部町常夜灯」に出ました。 ここからが鳴海宿となります。 この常夜灯には「文化三丙寅(1806年)正月と刻まれており、長く人々の安全を願う歴史ある常夜灯です。
常夜灯から約10分、扇川の手前70m位の所に下の様なモニュメントが、
で、扇川を渡ると右に瑞泉寺がありお参り。 門前には下の言葉が掲示されており、簡単な言葉ながら「日常の事から心の悩み等まで当てはまる言葉」と感銘しました。
更に県道222号を進むと相原町と本町の境界に「曲尺手(かねんて)」がありました。
(曲尺手は道路をクランク状に曲げた所の事で、宿場に賊が押し入った時賊はクランク状に曲がって走らざるを得ず走る速度を落とす事が出来ます。 又、大名行列で大名同士がかち合いそうになった時、格式の低い大名が休息をよそおい寺等に退避、クランク状道路が陰となり格上の大名を見る事無く緊急避難できます。)
鳴海の「曲尺手」から約200m、本町交差点を右折して50m位の所に「高札場」が。
(高札場(こうさつば・たかふだば)は、奈良時代頃から明治時代初期迄一般法令や基本的法令を板に記して、宿場等人の集まる場所に掲示して民衆に周知させる場所です。)
高札場には下の様な説明板がありました。(写真をクリックすると拡大します。)
高札場の斜め向かいの誓願寺には「芭蕉翁」の碑があります。
この碑は芭蕉が没した翌月如意寺に建てられたものを芭蕉の門下下里知足(しもさとちそく)の菩提寺であったこの誓願寺に移された。 芭蕉が亡くなられた(1694年10月12日)翌月に建てられた碑で、芭蕉の碑としては最古の供養塔との事。「芭蕉堂」の南東にあります。
芭蕉堂と緑石の供養塔
本町交差点に戻り県道222号を50m強歩くと左側に綺麗な「山車蔵」があり、そこには「鳴海宿本陣跡」との表示がありました。 愛知県には本当に多くの山車があります。
(写真をクリックすると大きく表示されます。)
本陣跡から約100m歩き作町交差点を道なり右方向に曲がり、更に歩く事700m位の所の右側に「丹下町常夜灯」がありました。 この常夜灯は「鳴海宿の西の入り口」に建てられた様で、東から見ると鳴海宿の終点と言っていいのかも。
で今回、思いがけず下写真の様な車を10分弱の間に各々見る事が出来ました。 お互いのオーナーさんは承知しているのでしょうかね!
ニッサンマーチベースの車
オリジナルのフォルックスワーゲン
次回は「鳴海宿から宮宿」をレポートしたいと思います。