SSブログ

東海道五十三次,滋賀県の土山宿から水口宿 (その2) [ 東海道五十三次]

  
 前回、2020年2月19日にレポートした「東海道五十三次,滋賀県の土山宿から水口宿 (その1)」の続きです。

 国道1号線の交差点「大野西」では国道を左側に横切り、斜め左に続く「県道549号線」を歩くのですが、県道左脇には石庭の様な所があり、柱状の看板には「水口宿」とありました。
 夕陽に追いかけられながらも、「水口宿」の文字に元気をもらい、先人の地図を見ながら 一生懸命に歩く事に!

 大野西の交差点から約150mで右折し、「居酒屋 仕事人」の前を通って急坂を上って行き、居酒屋 仕事人から400m、「古民家カフェ一里塚」の先に「今在家(いまざいけ)一里塚跡」がありました。「江戸から112番目の一里塚」との事。
blogDSCN9985.jpg


 一里塚を過ぎたら最初の路地を左に曲がり、再び「県道549号線」に出て350m程歩き、甲賀市のコミュニティバス 和野・中畑ルートのバス停「今郷」で右側の路地に入って行き、更に、500m程歩くと再び「県道549号線」に合流、岩神社参道に出ます。 
参道の入り口には岩神の説明や「子供の名前」の付け方等が説明されていました。
           写真をクリックすると大きく表示されます。
blogDSCN9991.jpg blogDSCN9993.jpg 

 岩神社参道の前を通り、再び県道から離れ、右側の路地に入って行きます。
(旧東海道を路地と書きましたが、道が狭いだけの事で本来は長~~い歴史のある本道です)
路地に入って約1.0km でY字路を右に入り、650mで「秋葉北」の交差点を横切ります。
 「秋葉北」の交差点には用水路が流れ、その下には直角方向に川(これも用水路かも)が流れ、2段階の水路となっていました。 上側の用水路を「天井川」と言うのだろうか?

「秋葉北」の交差点から150m強で、「東海道水口宿 東見附跡」に出ました。
やっと水口宿に着き、冠木門がありましたが、なぜか宿場入り口を示す写真を撮ってない!!!  見附跡には東海道の説明掲示板が!

blogEDSCN0001 (4).jpg

 見附から約70m程歩くと「田町・片町曳山蔵」がありました。
ここの曳山蔵がどのようなものだったかをも見ずに写真だけ。
 帰宅した今思うと、この時午後5時を回っており、この日の終点と決めていた「近江鉄道線路脇の三筋の辻 からくり時計」迄明るい内に着きたいとの思いで焦っていたのだろう!

blogEDSCN0001 (5).jpg
 

 で、見附から「元町の交差点」を横切り120m、「水口宿脇本陣」の一部が残されていると言うお宅に到着です。 水口宿の脇本陣は文久3年(1863年)の「水口宿内軒別書上帳」には記述がみられる事から19世紀前半の建物と推定される様で、脇本陣の特徴の大きな間口・奥行きが見られ、元の家屋規模は水口随一だった)ようです。
blogEDSCN0001 (9).jpg


 脇本陣のお宅から約50m、左側にごみ箱と消火栓の陰に隠れる様に「水口宿本陣跡」の表示板がありました。

 水口宿の説明板では、
「水口は道によって開け、道によって発展した所です。
この地には古くから東国へあるいは伊勢への道が通り、人々の往来が頻繁であったようですが、室町時代には伊勢参宮の将軍家が休泊しているように宿村として開け、また市が立つところであったようです。
 しかし、現在につながる町の基ができたのは、天正十三年(1585年)秀吉が家臣の中村一氏に命じて城(水口岡山城)を築かせてからのことです。 この時山ろくの集落は城下町となり、城主三代、十五年の間に市街地の基礎が形成されました。
 関ヶ原合戦翌年の慶長六年(1601年)、交通体系の整備に取りかかった徳川氏は、東海道を整備しその要所の町や集落を宿駅に指定、公用人馬の迅速な輸送に備えましたが、直轄の地でもあった水口はこの時宿駅に指定され、明治初年まで東海道五十番目の宿場として歩みました。」
とあった。

 また、「水口宿は甲賀群内の3宿場中最大規模で天保14年(1843年)には家数692軒内旅籠41軒」だったそうです。

本陣の碑への入り口
blogEDSCN0001 (11).jpg

本陣の碑と明治天皇の碑
blogEDSCN0001 (13).jpg


 本陣跡前から約50mでY字路に出ますがここは左に行きます。
blogEDSCN0001 (19).jpg


 で次のY字路は右に行きます。
(水口宿の街中は3本の平行な道(三筋)があり、旧東海道は真ん中の道の様です。)
 右側に入って約50mで「旅籠町曳山蔵」の前に出ます。
「水口の曳山は享保20年(1735年)に9基の曳山が巡航し、その後1町毎に曳山が建造されるようになり、その数30基余りに達したと言われるている。 当地(旅籠町)の曳山は「層露天式人形屋台」と言う構造をもち、複雑な木組み、精巧な彫刻、華やかな幕を飾り付けて巡航し、巡航後は組みあがったまま、各町内に建てられている「山蔵」に収納されている。」との事。

blogEDSCN0001 (22).jpg


 旅籠町曳山蔵から100m強の十字路左角に「問屋場跡」がありました。
問屋場は、宿駅本来のの業務である人馬の継ぎ立てを差配した所で、宿駅の中核的施設として、公用貨客を次の宿迄運ぶ伝馬と、人足を用意しました。

blogEDSCN0001 (26).jpg


 問屋場の十字路から約100mの次の十字路の右手前には、1台目の「からくり時計」がありました。 水口地区の曳山をモチーフにして作られているそうです。
ここ水口宿 大池町のからくり時計は、午前9時・正午・午後3時・6時になると水口囃子を演奏してくれるそうです。

blogEDSCN0001 (27).jpg


 更に三筋の真ん中を暗くならない内にと頑張って600m程歩き、「三筋の辻 からくり時計」に到着しました。 何とか明るかった。
しかし、なぜか直ぐにホテル迄明るい内に行こうと考え時計の写真を撮るのが精一杯でした。

blogEDSCN0001 (31).jpg


 で、今回の「土山宿から水口宿迄の東海道五十三次歩き」はここ迄とし、この間は10.6kmとの事、私は寄り道が多かったりで、自宅からの歩数は何と32000歩強でした。


 尚、水口宿の「歌川広重の絵」は 干瓢を干す人達の絵で、この絵によって水口の干瓢が全国区の名産になったそうです。
 場所は「三筋の辻 からくり時計」から1.8km、「北脇縄手と松並木」の石碑(下写真中央の石碑)付近だそうです。 今の北脇縄手は、水田地帯で縄手の両側に民家があるだけです。
(幸い水口から三雲駅まで歩いていたので、広重の絵の場所を見つける事が出来ました。)

Tokaido50_Minakuchi[1].jpg

今の北脇畷の石碑付近
blogDSCN2547.jpg



 で、翌日は疲労もあり水口城の見学、旧東海道歩きは三雲駅迄としました。 この時のレポートは次の宿場「石部宿」迄到達した時にレポートします。

 何とか東海道五十三次の内、50番目の宿場迄踏破した事になりました。
あとちょっとですが、次に歩けるのは何時だろうか??!!


nice!(10)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

nice! 10

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。