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佐倉惣五郎と東勝寺 (宗五霊堂) , 佐倉宗吾旧宅 [ 旅行 関東(除く東京・神奈川)]

   
 5月11日に サクラ オートヒストリー フォーラム に参加して来ました。

 下総の国印旛郡生まれの私にとって 佐倉と言えば ”佐倉惣五郎」 でしょう!”

 と言う事で、5月11日は雨だった事もあり フォーラム に参加後一泊し、佐倉宗吾霊堂の 「東勝寺」 等を見学してきました。
佐倉惣五郎は 「木内宗吾様」 や 「宗吾様」 と言ったりしますが同じ人の事。 惣五郎はりつけの200年後に歌舞伎 「東山桜荘子(ひがしやまさくらのそうし)」 で 「惣五郎物語」 がほぼ確立。
最近では 「佐倉義民傳」 として松本幸四郎さんや中村勘三郎さんが演じています。

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東勝寺  
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%8B%9D%E5%AF%BA_(%E6%88%90%E7%94%B0%E5%B8%82)
佐倉惣五郎伝説 http://www.rekihaku.ac.jp/about/books/1.html
宗吾霊堂サイト http://www17.ocn.ne.jp/~sougorei/

 
 佐倉惣五郎は四代将軍 徳川家綱公(1641~1680年)の時代の人で、歌舞伎や言い伝えでは、

 下総の国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市)の生まれで、当時の佐倉藩主 堀田正信公は江戸詰となり、実質藩を治めていた家老の悪政・重税に領民は苦しんでいた。
(惣五郎家の現当主の話では田畑の税は勿論 農具のくわ等にも税が課せられ 結婚時は婚姻税迄あったそうです。)
 その為百姓領民は一揆にはやったが、佐倉藩の名主衆が協議しまず佐倉藩重役に減税を願い出たが聞き入れられず、江戸の堀田正信公の上屋敷に願い出るも門前払い。 ついに将軍家側用人久世大和守広之公に駕籠訴したが却下された。
 そこで最後の手段として 1652年12月、惣五郎は妻を離縁し、船の渡し守甚兵衛の手を借り印旛沼を渡り、江戸上野の寛永寺を参拝中の四代将軍徳川家綱公に直訴。 直訴は取り上げられ佐倉藩の重税は軽減、領民の暮らしは改善された。
 しかし当時直訴は重罪で惣五郎は佐倉藩に引き渡され、1653年8月惣五郎の子供4人は惣五郎の目の前で打ち首、惣五郎ははりつけとなった。


 その100年後、佐倉藩主堀田正亮公が 当時の悪政の反省に立ち惣五郎に「宗吾道閑居士」の法号を送り惣五郎は 「宗吾様」 と呼ばれるようになった。
 140回忌には堀田正順公が「徳満院」 の院号を送り石塔を立てたそうです。 更に1806年堀田正時公からは宗吾様の子孫に田高(でんたか)5石を与えたそうです。


 私の記憶していた「惣五郎物語」は、多分親から教わったり地方回りの役者の演劇等でいつの間にか覚えた物で、年号等は別にほぼ今回東勝寺等で見聞きした物と同じであった。

 とは言え、史実で確認されている事は当時の名寄せ帳に 「惣五郎がいた」と言う事だけ。
下総の国印旛郡生まれの私としては上記が全て史実として確認裏付けられて欲しいと願っています。


東勝寺 仁王門
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佐倉惣五郎とその子供4人のお墓
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東勝寺、仁王門を入って本堂をのぞむ
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東勝寺内、宗吾霊宝殿
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宗吾霊宝殿内には蝋人形66体 13話で惣五郎がはりつけられる迄の物語を再現している。
写真はその第1話 家老の贅沢三昧 (館内は撮影禁止で、1話のみ外から撮影)
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 次に惣五郎旧宅へ
 旧宅の現当主によると、惣五郎は6人のお子さんを持ち、はりつけ時長女と次女は嫁いでいた。
惣五郎とその子供4人が処刑された事で後継ぎが無くなり、長女は嫁ぎ先でご主人を亡くしていた為、惣五郎宅に戻り家を継ぎ、婿養子をとり現在迄続いているとの事。

惣五郎旧宅
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